木村重成の首実検 香を焚きこめていた理由は武士としての美学だった!?
戦国末期に、ほんの短い間だけですが、鮮烈な印象を残した若武者がいました。
彼の名は、木村重成(きむらしげなり)。豊臣秀頼の乳兄弟に当たります。
秀頼からの信頼も厚く、苦境にあった豊臣家に必死に尽くしました。あの徳川家康とも強気で渡り合ったと言います。
初陣であった大坂冬の陣で奮戦し、そして、夏の陣が起こります。
重成は悲壮な覚悟を胸に秘め、結婚したばかりの妻を残して戦場に向かったのでした。
木村重成の最期
1615年、大坂夏の陣が勃発しました。
冬の陣の講和条件として、大坂城の外堀を埋められてしまった豊臣方は城から出て戦わざるを得ない状況となっていました。
河内路から大坂城へ向かう徳川軍へ向けて、重成は長宗我部盛親、増田盛次(ましたもりつぐ)などと一緒に出陣します。
これに対する江戸幕府軍は藤堂高虎と井伊直政の子:井伊直孝が率いている部隊でした。
そして、両軍が激突したのが八尾・若江(やお・わかえ)の戦いと言われています。
重成は奮戦し、藤堂軍の右翼を破り、藤堂一族の武将を戦死させるほどの活躍をみせます。
しかし、彼は「この程度の勝利はものの数ではない」とこの戦果に満足すること無く、部下の静止を振り切り井伊軍へと突撃を敢行し、井伊軍との激戦の末、重成は討たれてしまいます。
首から不思議と香りが!
井伊軍によって討たれた重成の首は家康の陣へ送り届けられ、そこで首実検が行われました。
すると、不思議な事に彼の首級からは香が漂ってきたといいます。
皆これに驚きましたが、家康は「見苦しくないように香を焚きこめたというのは、良き勇士の嗜みだ」と重成に感心したと伝わっています。
さらに重成の兜の緒は、解けないように緒の端を切り落としてありました。
これに関しても、家康は「討死の覚悟があってこうしたのだから、勇敢なことだ」と彼を称賛したのです。
香を焚きこめていた理由
しかし、重成の首には香が焚きこめてあったのかが疑問ですよね。
家康の言葉として残っている「見苦しくないように」という意図をもって、本人が香を焚きこめたと思われます。
それはすなわち、自分の首が戦場で取られ、首実検にかけられるところまでを想定してのことだったのではないでしょうか。
死してもなお威風を保つ。武士としての尊厳というものだったのかもしれません。
また、重成は戦の前から食事を控えめにしていたといいます。
昔、戦場で首を取られた武将の首の傷から食物が出てきたというので、そうはなりたくない、見苦しくはしたくないという思いがあるのだと、重成は妻に告げています。
まとめ
重成の父:重茲(しげこれ)は千利休の弟子だったという一面があり、母の宮内卿局(くないきょうのつぼね)は秀頼の乳母で大坂城の中心にいました。
2人の息子である重成は、おそらく風雅を解する青年だったと考えられます。
また、父は豊臣秀次の事件に連座して自害しており、重成にとっては死は身近で、常に武士としていかに散るかということを考えさせられてきたのではないかと思います。
だからこそ、死ぬとわかっている戦いの前に、香を焚きこめるということができたのはないでしょうか。
こういう人物が早くに亡くなるというのは、もう起こってしまったことではあるのですが、惜しいなと思わされますね。