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本多忠勝の兜に込められた意味とは?

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徳川四天王・徳川十六神将に数えられる本多忠勝。

生涯で57回もの合戦に出陣しながら、一度も傷を負わなかったという逸話がある猛将です。

そんな忠勝の兜にはどんな意味が込められているのでしょうか。

幸村と同じ鹿の角

忠勝の兜は家康のものと同じく黒色をしており、さらに最大の特徴は脇立ての大きな鹿の角でしょう。

脇立てに鹿の角を持つ兜を着用した戦国武将としては真田幸村も有名です。幸村の兜といえば赤というイメージが強いですが、実際には黒いものが残されています。

つまり、二人の兜はとても似ているといえるのではないでしょうか。

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鹿のように!

なぜ、忠勝が鹿の角をモチーフにした兜を着用するようになったかについてはいくつかの逸話が残されています。

忠勝13歳のときのこと。桶狭間の合戦で家康が三河に帰ろうとすると、増水して渡れない川がありました。その時、突然鹿が現れて浅瀬を教えてくれ、そのおかげで無事三河に帰ることができたといいます。

その時以来、忠勝は「この時の鹿のように、一生家康殿をお守りしよう」と心に決め、鹿の角を持つ兜を制作させたのです。

この話の真偽は不明で、その上「鹿のように」ではなく、「この鹿は伊賀八幡宮からの使いにちがいない」と考えた忠勝が、伊賀八幡宮の神主に兜を制作させたという説もあるそうです。

鹿は神の使い?

鹿は古くから神の使いとして大切にされてきました。鹿を神使としているのは奈良の春日大社、茨城県の鹿島神宮、広島県の厳島神社です。

なぜ、鹿が神の使いとされるのかについては諸説ありますが、山の多い日本において、険しい山でも颯爽と駆け抜ける鹿は神秘的な力を持つ動物に写ったのかもしれません。

また、源平の争乱で活躍した源義経にも鹿にまつわる逸話があります。

それは、一の谷の戦いにおける「鵯越の逆落とし」です。

源平両軍による一進一退の攻防が続けられるなか、一の谷の裏手にある鵯越に立った義経は「鹿はこの道を越えるか」と問いました。尋ねられた家臣が「冬場は鹿は越える」と答えると、「鹿が降りられるところを馬が降りられないはずがない」と言い先頭を切って一気に急な坂を駆け下り攻め込ました。

この奇襲攻撃により形成は一気に源氏に傾き、平氏は敗走、源氏が勝利を収めることができたのです。

この逸話は『平家物語』の他、鎌倉幕府編纂の歴史書『吾妻鏡』にも記されていて、『吾妻鏡』には鵯越の注釈に「この山は猪、鹿、兎、狐の外は通れぬ険阻である」とあります。

私はこの注釈がとても興味深いと思っているのですが、ここに挙げてある「猪、鹿、兎、狐」というのはどれも神使として祀られている動物なのです。神秘的な理由から険しい山を自由に駆けることができると考えられていた可能性があると考えられます。

桶狭間の戦いは忠勝にとって初陣であり、そこで鹿が現れたとすれば、その鹿の出現と自分との間に何か神秘的な縁を感じたとしても不思議ではないのではないでしょうか。

そんなに重くありません

前で触れた真田幸村の兜は現在宮城県蔵王朝で開催中の「特別展 仙台真田氏の名宝Ⅲ」という展覧会で見ることができます。

そのポスターを見ると、大きな脇立てとして描かれることの多い幸村の鹿の角が実は小さな前立てにすぎなかったことがわかります。

それに対し、忠勝の鹿の角の脇立ては描かれている通り、かなりの大きさがあります。そのため、とても重そうに見えますが、実は角の部分は和紙でできていてそれほど重くないのだそうです。

しかも、取り外せるとか。なんと実用的な兜でしょう。

現在重要文化財に指定されている忠勝の「鹿角脇立兜」は愛知県岡崎市の三河武士のやかた家康館に所蔵されています。

幾多の死線を潜り抜け、家康を天下人にまで押し上げた本多忠勝の兜。一度拝見してみたいものです。

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