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本多忠勝は戦で終生傷を負わなかったって本当!?

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本多忠勝と言えば、徳川家康の側近中の側近にして比類なき勇将です。豊臣秀吉にも「天下無双」と呼ばれたほどですから、その強さは超一流だったのでしょう。

そんな忠勝に伝わる話といえば、戦において終生傷を負わなかったということです。

しかし、これって本当なのでしょうか。どれくらい多くの戦に出陣したのかを検証しつつ、見ていきたいと思います。

戦で傷を負わなかったという伝説の真偽

忠勝を語るうえでまず言及されることは、生涯で多くの戦に参戦しながらも、ついに傷を負うことがなかったというものです。

当時の戦では飛び道具(弓矢や鉄砲)が使われていました。それにもかかわらず傷を負わなかったというのはどういうことなのでしょう。

忠勝は一足軽から成り上がったという類ではなく、最初から足軽たちの後ろにいる隊長クラスだったため、飛び道具の傷を負うことがなかったのではないかとも考えられます。

しかし、猛将の彼が後ろに控えているとは考えにくいかもしれません。一方で、切り込み隊長として率先して乱戦の中に突入すれば、飛び道具は意味を成しません。白兵戦になれば無双の強さだったと考えれば、大きな傷を負うことはなかったのかもしれませんね。

もちろん、小さな傷くらいは負ったと思います。しかし、傷を負わない猛将としての伝説は、それくらいのことは見逃したのではないでしょうか。

何にせよ、大きな怪我をすることがなかったのは事実であると考えられます。

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忠勝と戦

忠勝が出陣した戦の数は、大小合わせて57回とされています。初陣(1560年)から最後の戦いになる関ヶ原の戦い(1600)までの40年間で57回なので、年に1回以上は戦に出ていた計算になりますね。

傷を負わなかったとはいえ、年に1回以上は命の危険があったと考えると、ちょっとぞっとしてしまいます。

この戦の中には非常に厳しい戦いが幾つもありました。そんな中で、忠勝は常に力を発揮し、難局を切り抜ける一筋の光となってきたのです。

それでは、続いて彼の主な戦いについて次に見ていきましょう。

初陣から主な戦いでの活躍

初陣(1560年・13歳):大高城への兵糧入れ(桶狭間の戦いの前哨戦)

当時、今川義元の配下にあった徳川家康(当時はまだ松平元康)が、大高城を守る鵜殿長照(うどのながてる)の下に兵糧を届ける役目を果たしました。

その時が忠勝の初陣になります。この時は武功を挙げる機会はありませんでした。

初首(1561年・14歳):鳥屋根城(とりやねじょう)の戦い

家康が今川氏の支配から独立し織田信長と同盟を結んだ後、対今川氏の鳥屋根城の戦いにおいて忠勝は初首を挙げます。この時は叔父の忠真(ただざね)が一緒でした。

忠真が敵兵を刺し、忠勝を招いて「この首を獲れ」と言いますが、忠勝は「人の力を借りて功など立てられようか」と自ら敵陣へ切り込み、首を獲ってきたというエピソードがあります。14歳にしてこの豪胆さ、只者でない風格が漂っています。

三河一向一揆(1563~1564年)

家康にとってピンチだったのが、三河で力を持っていた一向宗の寺(本證寺:ほんしょうじ、上宮寺:じょうぐうじ、勝鬘寺:しょうまんじ)と反家康勢力による三河一向一揆でした。この時は家康の家臣の中にも離反者が出ており、宗教(信仰)がこの時代にも難しい問題だったことがわかります。

主な離反者は、後に参謀として復帰する本多正信(ほんだまさのぶ)、徳川十六神将のひとり蜂屋貞次(はちやさだつぐ)、三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなる夏目吉信(なつめよしのぶ)などがいました。

忠勝もまた一向宗の信徒だったそうです。しかし、浄土宗に改宗して家康に忠誠を尽くしました。

そして、上宮寺攻めで活躍し、この頃から彼の愛槍「蜻蛉切り(とんぼぎり)」を冠して「蜻蛉切りの平八郎」と呼ばれるようになります。一揆鎮圧の後には勲功第一とされたそうです。

姉川の戦い(1570年)

織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍によるこの戦いでは、家康軍に2倍する朝倉の大軍に対して忠勝がひとり突っ込んで行ってしまいました(単騎駆け)。

家康は驚き、何とか忠勝を助けようと軍を動かします。結果的にこれが反撃の狼煙となり、勝利となったそうですが、スタンドプレー…?とも思ってしまいます。

また、この戦いでは朝倉側の巨漢の豪傑:真柄直隆(まがらなおたか)と一騎討ちを演じたと言われています。

一言坂(ひとことざか)の戦い(1572年)

三方ヶ原の戦いにつながる戦いである一言坂の戦いは、向かってくる武田軍への偵察隊として出陣していました。

しかし、予想を上回る速さの武田軍の進軍により、追いつかれてしまいます。忠勝と大久保忠佐(おおくぼただすけ)は殿を引き受け、家康を逃がすことにしました。

忠勝らは一言坂の坂下という不利な場所に陣取り、武田方の猛将:馬場信春(ばばのぶはる)の攻撃を受けます。猛将の突撃によって陣は崩れ大ピンチとなりますが、忠勝は奮戦し敵中突破をを図りました。彼の獅子奮迅の活躍の隙に、家康は何とか脱出に成功したのです。

この時、武田方の小杉左近(こすぎさこん)は、忠勝の奮戦の凄まじさに感服し、戦いの後に歌を詠んでいます。

「家康に 過ぎたるものが 二つあり 唐の頭に 本多平八」(唐の頭:家康が被っていた、ヤクの毛の飾りがついた兜)

三方ヶ原の戦い(1572年)

前哨戦の一言坂の戦い、二俣城(ふたまたじょう)の戦いに敗れた家康は、なおも進軍を続ける武田軍の進路を阻むべく三方ヶ原で戦いを挑みました。姉川で単騎駆けをした忠勝と同じくらい、この時の家康は無謀でした。

V字型の鶴翼の陣の左翼に位置した忠勝は、赴くところ敵なしと称された武田方の山県昌景(やまがたまさかげ)隊と交戦し、敗れはするものの彼自身は奮戦します。しかし、この戦いで叔父の忠真が討死してしまいました。

小牧・長久手の戦い(1584年)

長篠の戦い(1575年)や武田側からの高天神城(たかてんじんじょう)奪還戦(1580年)でも活躍した忠勝は、敵味方を問わずその武勇を賞讃される存在となっていきました。1582年、本能寺の変で信長が討たれると、堺見物に来ておりわずかな供しか連れていなかった家康に従って、上方からの脱出(神君伊賀越え:しんくんいがごえ)を成功させます。

そして、信長に代わって天下人となろうとする豊臣秀吉と家康との間に起きた小牧・長久手の戦いでは、再び忠勝の存在感が発揮されました。

この時、忠勝は留守役であったため出陣していませんでした。しかし、長久手における戦いで秀吉側の池田恒興(いけだつねおき)や森長可(もりながよし)が討死したため、劣勢を打開するべく秀吉自ら大軍を率いて家康軍に向かってきます。

秀吉の大軍相手では、家康がかなうわけもありません。これを知った忠勝は、わずか500の手勢を率いて出陣しました。そして、竜泉寺川(りゅうせんじがわ)の対岸から秀吉軍に向かって鉄砲の威嚇射撃を行います。牽制の意味もありましたが、忠勝としては、500人でも秀吉軍に挑んでやるというつもりでした。秀吉が無視して軍を進めたので、今度は忠勝は単騎、川に入って馬の口をすすがせ、さらに挑発します。

それを見た秀吉は、忠勝が命をかけてこの大軍を止めようとしている意気に感じ、部下たちに「あいつを討ってはならぬ」と命じました。後、彼は忠勝を「東国一の勇士」と褒めたたえています。

一方、家康と同盟を結んでいた織田信雄(おだのぶかつ)は、忠勝の功に対し法成寺(ほうじょうじ)という刀を与えたとも伝わっています。しかし、秀吉の形見分けの目録である「秀吉公御遺物」に法成寺が忠勝に与えられたとあるので、確かではないようです。

関ヶ原の戦い(1600年)

関ヶ原の戦いでは、本多の本隊は忠勝の長男:忠政(ただまさ)が率いており、家康の息子:秀忠と共に中山道を西進していました。このため、真田昌幸(さなだまさゆき)・信繁(のぶしげ)らとの上田合戦に投入されています。

忠勝はどうしていたのかというと、わずかな手勢だけを率いて家康の本陣にありました。井伊直政と共に軍監(目付役)を命じられており、豊臣恩顧の大名たちの動向を監視していたのです。

しかし、前哨戦である竹ヶ鼻城(たけがはなじょう)の戦いや岐阜城の戦いには参戦し、織田信長の孫にあたる織田秀信や杉浦重勝(すぎうらしげかつ)らと戦い勝利しています。

そして、本戦においては井伊直政と共に西軍の毛利氏重臣:吉川広家(きっかわひろいえ)の内通工作に尽力しました。毛利家の所領を安堵する書状を送るなどして毛利・吉川軍が参戦しないようにし、これが戦いの勝利の大きな要因となったのです。

そして、忠勝はやはり戦場に出ていきました。井伊直政・松平忠吉(まつだいらただよし:家康の四男)と島津義弘(しまづよしひろ)と交戦します。島津軍は孤立しており、「島津の退き口」と呼ばれるすさまじい猛攻で中央突破を図ろうとしてきました。この時に直政や忠吉は負傷してしまいますが、忠勝隊は90もの首級を挙げるなどして活躍します。

そして、やはり忠勝は傷を負いませんでした。ここがすごいところです。

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まとめ

紹介しただけでもすさまじい戦いの連続なのに、大きな怪我を負っていないところは本当にすごいですね。

運も彼に味方したのでしょうが、やはり彼は戦いの申し子だったのかなと思います。敵にもあっぱれと言わせるところが、真の勇将である証です。

ただ、訓練で槍を持たせると残念な感じだったらしいですが、実戦向きの人だったのかもしれません。

xiao

投稿者プロフィール

歴史と犬の話題があれば生きていける、そんな人間です。
平安時代と戦国時代が好きですが、調べ出したらどの時代でも面白いです。歴史って本当に面白いものですね。
「トリビア」な話題を、みなさんにわかりやすく面白く読んでいただけるように頑張ります。

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