聖徳太子のお墓はどこに!? 古代史のヒーローの最期に迫る!

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古代史の中で最も有名な聖徳太子。冠位十二階の制や十七条の憲法など、彼の残した功績は、日本史がそれほど得意ではない人でも知っていると思います。

しかし、ほとんどの人が彼の晩年やお墓の場所は知らないのではないでしょうか。

そんな聖徳太子の晩年や、聖徳太子が眠るお墓についてまとめてみました。

聖徳太子の晩年

推古天皇の摂政として働いていたころは、遣隋使や遣唐使として、多くの留学生や留学僧を派遣していた聖徳太子はですが、晩年は政治から退き、若い人材を育てるため、そしてすべての人が慈悲心を大切にする平和国家を目指すため、仏典の研究に没頭しました。

太子が政治を担った時代は様々な対立がありました。太子が様々な改革を進め、よりよい国家を作ろうとしても、そこには嫌が応にも政治的な軋轢がつきまとっていました。

このような対立は、お互いが自己の正当性に執着していることから始まり、執着がなくならない限り、対立はなくならないことを太子は仏教から学んだのでしょう。太子は全ての対立、軋轢などがない平和な国家を目指し、執着からの解放を説く仏教が重要だと考えたのです。

太子は高句麗の高僧・慧慈に師事し、615年、太子が41歳の時に仏教の教科書となる「三経義疏(さんけいぎしょ)」を作成しました。

この本は全ての人々が仏教に興味を持つようにと工夫がなされており、仏教を多くの人に広めたいという太子の願いが込められています。

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聖徳太子の最期

日本書紀によると、621年の暮れ、太子の母穴穂部間人皇女が亡くなります。そして年が明けて622年、太子が48歳の時に、太子も病の床につきます。

二月に入ると、太子より先に、太子の妻の一人である膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)が亡くなります。そして、妻が亡くなった翌日、太子も逝去しました。わずか数カ月のうちに3人が亡くなったので、3人の死因は伝染病だったのではないかという説があります。

聖徳太子のお墓について

聖徳太子は生前に自らの墓所となる場所を決定していたそうです。そして、それは現在の大阪府南河内郡太子町にある叡福寺の中の叡福寺北古墳であると言われています。(宮内庁が聖徳太子の墓所と比定しています。)

近鉄長野線貴志駅、または近鉄南大阪線上ノ太子駅からバスで「太子前」バス停まで行き、そこから徒歩3分ほどでたどり着く事が出来ます。

なぜ、この場所が聖徳太子のお墓とされている理由としては、日本書紀に次のような記述があったからだという説があります。

「是の月、上宮太子を磯長陵に葬る」。上宮太子は聖徳太子のことで、陵は天皇や皇族のお墓のことをさします。そして、この磯長という地名は大阪府南河内郡太子町の古い地名であると言われているのです。

このお墓は精巧な切石を用いた横穴古墳で、聖徳太子だけではなく、母の穴穂部間人皇女、妻の膳大郎女もこのお墓に納められていると伝えられていることから、三骨一廟と呼ばれています。

生誕地の橘寺、太子が建立した斑鳩寺、そしてこの叡福寺が一直線に並んでいるということの他にも、この太子廟にはいろんな逸話があるとされています。

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Sakura

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投稿者プロフィール

天智天皇~称徳天皇朝が好きな一児の歴女ママです。
夢は奈良の明日香村付近に住んで、その時代の古墳やゆかりの地巡りを満喫したいなと思っています。
皆さんに読みやすく、そして分かりやすく面白い文章をお届けしたいです。

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