聖徳太子の功績の一つ 遣隋使の目的とは何だったのか?
聖徳太子の政治的功績といえば、十七条の憲法の制定や冠位十二階の制などが知られていますが、もう一つ有名なのが遣隋使の派遣なのではないでしょうか。
小野妹子という現在でいうと女っぽい名前の人が、中国の王様に偉そうな文書を渡して怒られたと覚えた記憶があると思います。
そんな遣隋使はいったいどのようなきっかけで行われ、どのような影響を日本に与えたのでしょうか。
遣隋使派遣の理由・目的
日本書紀には書かれていないのですが、中国の「隋書」によると、600年に日本の使節が隋に来航したそうです。
これが第1回遣隋使と見なされています。しかし、その使節は、隋の皇帝・文帝から、日本はどのような国かと問われたところ、わけのわからないことを発し、まともに答えられなかったため、文帝に日本という国は未開発の野蛮な国だと思われたそうです。
その後、日本は宮殿やお寺を建て、十七条の憲法などを定めて、近代国家という様相を呈しました。文明国として、当時の世界の中心だった中国(=隋)と対等に付き合いたいという思いを持って、太子は608年に遣隋使を派遣したのです。そして対等につきあいながらも、隋の進んだ知識や文化などを取り入れたいと願いました。
遣隋使派遣時の周辺諸国との関係
589年、隋が中国を統一すると、朝鮮半島にあった百済と新羅はこの隋に朝貢(中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、中国の皇帝が、この君主がその国のトップであるということを認めて恩賜を与えるという形式)したが、高句麗は隋に従わなかったので、隋は高句麗に攻め込んだが、うまくいかなかった。
このような状況を鑑みて、太子は隋に対等な関係でつきあおうという内容の国書を渡し、時の皇帝煬帝を怒らせたが、煬帝は高句麗との対立のためには、日本とも不仲になるのは得にならないと思い直し、使者をそのまま日本に帰したそうです。
太子が中国との対等関係を望んだ理由としては、倭国の統治機関であった「任那」を含む加羅諸国を562年に滅ぼした新羅に対し優位な立場に立とうとしたことにあったとされています。
また、仏教を伝来してもらうなど親交の深かった百済も、政治的に高句麗・新羅に圧迫されていました。
このような感じで日本、中国そして周辺諸国は緊張関係の中にありました。
遣隋使が日本にもたらしたもの
上記の通り、遣隋使に派遣した留学生・留学僧などを通じて隋の進んだ文化・技術の輸入、隋との対等関係および新羅への優越感などがありますが、その功績は遣唐使を経て後世にまで引き継がれ、現在の日中交流の礎になったのではないでしょうか。