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聖徳太子の予言 原文は存在している!?

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一度に十人の人の話を聞けたり、生まれてすぐに言葉を発したという逸話を持つ聖徳太子。

日本書紀には太子が「兼知未然」(兼ねて未然にしろしめす=あらかじめ先々のことを知ることができるの意。)であったことが記されています。

そんな聖徳太子の残した予言について紹介していきます。

聖徳太子の予言が書かれた書物とは

日本書紀には、太子が予言者だったということは書かれているようですが、その具体的な予言の内容は記されていません。これは時の権力者(編纂者の藤原不比等や持統天皇など)の、自分にとって書かれていたら都合の悪いことやあまりにも恐ろしい記述に関しては書かないで削ってしまおうという思惑が働いたからだと言われています。

しかし、伏伝(最高の秘密の言い伝え)として、古くからあるお寺などでは、太子の予言が秘密裏に伝えられているといいます。

太子が残した予言書に「未来記」という本があると言われているが、それは文書としてはっきりとは形が残っていないとされています。しかし、その「未来記」を原本とし、大いに影響を受けて書かれたとされる「未然本記」という本は存在するとされています。

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太子の残した「未来記」の内容とは

「太平記」によると、建武の新政の立役者である楠正成が、四天王寺で「未然記」を見たと記されているとされています。

そこには楠軍が勝利し、鎌倉幕府が滅亡するということが書かれていたと記されていたとされています。実際に楠正成が後醍醐天皇らとともに鎌倉幕府を滅亡させたのは皆さんご存知の通りですよね。

また、太子は自分の死期を予知し、子孫は一人も残らないという予言を記していたそうです。太子の死後、その子孫の一族は蘇我入鹿軍に攻められ、自害したという史実があります。

そして、「私(=聖徳太子)の死後二百年以内に、一人の聖皇がここに都を作る。そこはかつてない壮麗な都となり戦乱を十回浴びても、それを越えて栄え、千年の間都として栄える。しかし、一千年の時が満ちれば、黒龍(=黒船)が来るため、都は東へ移される」と記されていたと言われています。

実際に太子の死後、170年ほど後に、桓武天皇が平安京に遷都し、約1000年の間、たくさんの戦乱を受けながらも首都として栄えますが、遷都からほぼ1000年の後、ペリー率いる黒船の来航をきっかけとして明治維新が起こり、首都は東、現在の東京へと移されました。

真偽は怪しい!?

これらの記述が太子の予言として本当に書かれていたのだとしたら、実際に太子は予言者であったといえるのではないでしょうか。少なくともこの3つは当たっていますよね。

ただ、後世の人が実際に起こった出来事に照らし合わせてみて、このことを言っているんだ!と、言葉は悪いですが「都合よく」解釈したので当たっているように見えるということは大いにあるでしょうが…。

しかし、太子はさらに現在よりも未来のことを予言していると言います。それは簡単にいうと少なくとも2017年までに「クハンダ」によって首都機能が8か所に分断されるというもの。

「クハンダ」の正体は隕石の来襲、核攻撃、富士山の噴火、放射性物質など色々考えられていますが、最も可能性の高いのが富士山の噴火だと考えられています。確かに富士山噴火だけでなく、考えられるどれもが東京を壊滅させ、首都機能を分断する恐ろしい力がありますね。この予言だけは当たらないことを祈りたいですね。

Sakura

投稿者プロフィール

天智天皇~称徳天皇朝が好きな一児の歴女ママです。
夢は奈良の明日香村付近に住んで、その時代の古墳やゆかりの地巡りを満喫したいなと思っています。
皆さんに読みやすく、そして分かりやすく面白い文章をお届けしたいです。

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