遣唐使が廃止された理由は対等な関係が築けなくなったから!?
630年から続いた遣唐使船派遣は、894年菅原道真によって廃止されました。
それにはどのような理由があり、その廃止によって日本に与えられた影響とはどのようなものがあったのでしょうか。
菅原道真が遣唐使を廃止した理由
894年(寛平6年)、菅原道真が遣唐使に任じられながらも、その中止を求め、結局遣唐使は廃止されました。
みなさん歴史の授業で年号を覚えるときは白紙(894) に戻そう遣唐使と覚えたと思います。その廃止の理由として、唐が衰退したため、危険を冒して大陸に渡るほどのメリットがなくなったということ(政治的意義の低下、留学環境の悪化など)と、その唐の衰えによってアジアの国際関係に変化が生じたということがあげられます。
唐は国力が無くなってきたことで、それまで遣唐使節に払ってきた費用の負担を軽減し、早急に帰国することを求めるようになったそうです。
また、日本国内の造船・航海技術の低下なども理由の一端となったとされています。そのようなことから、菅原道真は危険を冒して航海したくないと思ったのではないでしょうか。
そして、この道真派遣の理由が、時の天皇、宇多天皇が菅原道真に信頼を寄せていることから、藤原家が嫉妬し、二人を切り離そうと策略したと言われており、道真はその策略に乗らないようにしたという説もあります。
さらに道真は、遣唐使とは元々日中交流のために、聖徳太子の頃から対等な関係として開始したのに、いつの間にか朝貢使のように扱われているので、これは国辱であるということを唱えたと言います。
遣唐使廃止によって日本が受けた影響
遣唐使船とは別にすでに唐や新羅とは私貿易が行われていましたが、10世紀に入るとますます貿易がさかんになり、これが後の日宋貿易へとつながっていきます。また文化面においては大陸文化の影響が薄れ、日本独特の文化が発達します。
かな文字が作られる
これは国風文化(藤原文化)と呼ばれ、日本的な思想や意識が表面に表されたものだと言われています。その代表となるものがかな文学で表音文字としてのひらがなやカタカナが作られ、日本的な感情が自由に表現できるようになったため、平安時代初期の漢文学に対し、和歌が再び盛んになり、物語や日記が新たな文学として登場しました。
このかな文字の発達により、すぐれた女作家が誕生し、世に有名な「源氏物語」や「枕草子」が執筆されたのです。

By: Tatsuo Yamashita
建築の変化
諸外国に対する出費が少なくなったため、国内に向ける力が増えたので荘厳な建築なども発達しました。
貴族の住宅は白木造・檜皮葺・板床の諸を廊でつなげる日本風な寝殿造で造られ、室内には日本風の風物を描いた大和絵の屏風や蒔絵の調度品などが用いられました。
その他
書道も前代の唐様に対して優美な和様(わよう)が発達し、小野道風・藤原佐理・藤原行成の三人が三跡と称され有名になりました。
服装も中国風のものから、我が国独自の服装(例:十二単)が用いられ、生活の上でも国風化が進んでいきました。
このように遣唐使の廃止は国風文化の発展に多大な影響を及ぼしたと言えるのではないでしょうか。