聖徳太子の肖像画 あれって本当に本人がモデル!?
聖徳太子の肖像がといえば、ほとんどの人が思い浮かべる絵がありますよね。
あの絵は「唐本御影(とうほんみえい)」といい、「聖徳太子及び二王子像(しょうとくたいしおよびにおうじぞう)」とも呼ばれています。
これは聖徳太子を描いた最古のものと伝えられています。30年ほど前までは、一万円札などの紙幣に使われており、馴染みの深い方もいらっしゃるでしょう。
今回はこの絵についてのお話になります。
描かれた時期や横に描かれている人物とは
この絵が描かれた年代としてはここに描かれている服装や冠などが、聖徳太子が生きた飛鳥時代のものではなく、早くとも奈良時代となる8世紀頃のものと考えられており、それに付随して制作年代もその頃と考えられており、平安時代以降の模本とする説もあります。
また、横に描かれている二人の人物は、左が聖徳太子の弟の殖栗皇子(えぐりのみこ/生没年不詳/用明天皇の第5皇子で母は穴穂部間人皇女)、右が聖徳太子の息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう/生年不詳~643年12月30日/蘇我入鹿に攻められ自害)と言われています。
描かれているのは聖徳太子ではなかった?
1982年に当時の東京大学の史料編纂所長であった今枝愛真がこの絵に描かれた人物は聖徳太子ではないのではないかという説を唱えました。
今枝氏はこの太子像に「川原寺」読める墨痕があることに気づき、もともと川原寺にあったものが法隆寺に移されたのではないかと考えました。
しかし、川原寺は7世紀、天智天皇の時代に建てられた寺院であり、聖徳太子が亡くなった半世紀後に建てられたこの寺に聖徳太子の肖像画があるのはおかしく、この絵が聖徳太子のものとは特定できないとされています。
上記の通り、ここに描かれている人物がかぶっている冠や、着ている服、手に持っているもの等すべてが律令国家が成立してからのものであり、あごひげは後に書き加えられたとされ、以上のことからもこの人物が聖徳太子ではないという説が現在では有力です。
また、中国で描かれたという説もあり、誰を描いたものかということも含めて、どこでいつの時代に描かれたのか決着はついておらず、現在では教科書には掲載されていないか、または掲載される場合、「伝聖徳太子像」(聖徳太子が描かれていると言われていますよという意味)と書かれています。
本当は誰を描いたもの?
上記した通り、この絵の制作年は8世紀頃のものとされています。誰を描いたものかは定かではありませんが、この絵に描かれている人物が聖徳太子と呼ばれていた人物の雰囲気に合うのではないかと考えられ、これが聖徳太子の肖像画だと言われたという説と、百済の王族出身の画家、阿佐太子が彼の前に現れた姿を描いたものだという説があります。そのためこの肖像画は別名「阿佐太子御影」とも言われています。