聖徳太子は藤原不比等によって創作された人物だった?
日本史が得意じゃない人でも、日本人の9割以上の人がおそらく知っていると思われる聖徳太子。
しかし、この人は実は実在の人物ではなく、飛鳥から奈良時代にかけての権力者である藤原不比等が創作した人物だと言われていることはどれぐらいの人がご存じでしょうか。
もし、実際に聖徳太子が藤原不比等の創作だとすれば、いったい何故人一人を作り出したのでしょうか?
日本書紀に聖徳太子という名前は存在しない!
日本書紀にはまず、「聖徳太子」の文字は出てきません。推古天皇の皇太子として立った厩戸皇子が後にこの聖徳太子にあたる人物であろうと言われているだけなのです。推古天皇は甥であったこの厩戸皇子を皇太子に立て摂政とし、伯父の蘇我馬子と3人で政治を行うという体制をとっていたと日本書紀には書かれているそうです。
しかし、隋の史書には「西暦600年に日本から使いがやってきて、王は男であり、王の名は阿毎、字は多利思比孤だ」という旨を伝えたと書かれているそうです。
阿毎はアメ、多利思比孤はタラシヒコと読み、アメタラシヒコ、つまりは天から垂下した尊い男の意味を持つとされます。聖徳太子が小野妹子を遣隋使として派遣したと言われる603年よりも早くに男王が隋にやってきたという証拠です。
つまり、ここに中国の史書と日本書紀には矛盾が生じているのです。中国のこの史書が正しいとするならばこの男王はいったい誰なのかというと、時の権力者ということで厩戸皇子か蘇我馬子があげられます。
ではどちらがこの男王だったのかというと、蘇我馬子だったのではないかということが言われています。
なぜなら、聖徳太子が制定したと言われている冠位十二階の制、もし馬子が実力者とはいえ一臣下ならば、ここで冠位を与えられているはずですが、蘇我馬子が冠位を与えられた形跡はないそうです。それはなぜなのか、それは馬子自身が冠位を与える側の立場、つまり王だったからだというのです。
聖徳太子を作り上げる必要性はどこに!?
このことを踏まえて、最初の問題に戻ります。
藤原不比等はなぜ「聖徳太子」を作り上げたのでしょうか。それは不比等の父:鎌足の業績に関わってきます。鎌足は中大兄皇子(後の天智天皇)とともに、当時権勢を奮っていた蘇我馬子の孫である蘇我入鹿を討つというクーデターを起こします(乙巳の変)。
クーデターというものは、本来天皇になる権利のないものが天皇などに反旗を翻すことです。これはとても大事件です。藤原不比等は自分の父がそのような事件から実権を握ったということを隠したかったのではないでしょうか。
中大兄皇子や中臣鎌足の悪事を隠すのにはどうすればいいか…それは蘇我氏を悪者にすればいいのです。蘇我氏を悪者にすれば、父:鎌足がやったことはむしろ正義になるのですから。ということで、厩戸皇子を聖人に見立てて奉って、その聖人の息子である山背大兄王一家を自害に追い込んだ蘇我入鹿は大悪人だ、だから殺しても許されるべきことなのだということが言いたかったのでしょう。
また、孫の入鹿が大悪人なら、その祖父である馬子も実力者であれど、王(天皇)なんかではない、他に天皇と聖人と言われる聖徳太子という人物がいたんだ!ということにすれば、王権が馬子から子の蝦夷、孫の入鹿にいかず、推古天皇から舒明天皇へ、舒明天皇から(間をおいて)天智天皇へいったのにも正当性があるということにしたかったのではないかと思われます。
聖徳太子の実在性
聖徳太子の存在を明らかにしているのは日本書紀、十七条の憲法、肖像画などいくつかあります。
しかし、そもそも十七条の憲法は聖徳太子が作ったのではなくて、後世の創作だという説もあります。肖像画も聖徳太子の時代にはなかった物が描かれているので、その絵も後世の人が想像で描いたのではないかといわれています。
他の資料も後世のものという説もあり、未だに聖徳太子は実在したのか後世の創作なのか結論はでていないそうです。