遣隋使と遣唐使の違い 受験生はしっかり把握しよう!
600年に始まったとされる遣隋使は、聖徳太子が当時最大の国であった隋と対等な関係を結ぶために派遣したものです。
そして隋が滅び、代わりに唐が興って遣隋使が遣唐使として名称を変え、人々を大陸に送り続けてきました。遣隋使と遣唐使、この二つの違いとはいったいどのようなものだったのでしょうか。
周辺国と日本の関係について
遣隋使の頃
朝鮮半島は、高句麗、新羅、百済、加羅諸国に分けられていました。6世紀の頃は日本は百済から大陸文化を輸入し、仏教などが伝来されました。
しかし、百済は政治的に新羅・高句麗に圧迫されていました。また、大和朝廷の朝鮮半島の足場である任那を含む加羅諸国も、次第に新羅に吸収されていきました。
589年に長い間南北に分裂していた中国を隋が統一すると、百済と新羅はこれに朝貢しました。しかし、高句麗は隋に従わなかったため、隋は高句麗を滅ぼそうと遠征隊を送りましたが結局失敗に終わりました。
遣唐使の頃
朝鮮半島は、新羅が半島統一を進め、唐と結託して百済を滅ぼしました。
百済はその後も唐・新羅連合軍に対抗し、日本に救援を求めたので、日本はそれに応じて軍を送りました。
しかし、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗し、朝鮮半島での日本の地位は完全に失われました。668年には高句麗も滅亡し、多くの亡命者が日本に帰化しました。半島を統一した新羅と日本の関係は、使節の往来は多かったが安定はせず、対等な関係を望む新羅と朝貢国として従うことを望む日本で衝突がしばしば起こりました。
これに対し、中国の東北部、朝鮮半島の北部に興った渤海は唐や新羅と対抗するために、日本に朝貢し、北方の毛皮などを送りました。
隋・唐と日本の関係について
隋との関係
遣隋使を送った当初、隋では高句麗との戦いで大損害を受けていました。さらに607年には高句麗は東突厥と組み、再度隋と戦う姿勢をとります。
その頃に聖徳太子は遣隋使を派遣しました。当時の隋は最先端の文化を持つ世界の中心ともいえる国で、日本はやっと近代国家の体制を整えたばかりの弱小国でした。
しかし、聖徳太子は隋に朝貢している新羅より優位に立つために、隋に対等な関係を求めます。高句麗と戦っている隋としてはたとえ弱小国の日本でも、高句麗に付かれたら大変だとばかりに、これを認めました。
唐との関係
遣唐使の時代になると、対等な関係はなくなり、唐へ朝貢することで日本という国号が認められるという主従関係になってしまいました。
しかし、日本はその先進文化を輸入するため多くの留学生・留学僧を唐に派遣し、唐も遣唐使使節団に便宜をはかり、書物の下賜や物品の購入の許可を出すなど厚遇し、対等ではないにしろ良い関係を保っていたと言えるのではないでしょうか。
このようなことからよりどちらとの関係がよいものだったかというと、戦争回避のための対等関係だった隋よりも、唐との方が良好な関係であったと考えられます。
遣隋使と遣唐使の回数
日本側の記録にある遣隋使は607年、608年、614年の計三回のみで、607年には小野妹子が派遣され、608年には小野妹子が留学生8人、留学僧等を率いて再び派遣され、614年は犬上御田鍬が派遣されたという記述のみしかありませんが、必要最小限の人数で派遣されたのではないでしょうか。
しかし、630年から始まった遣唐使は、大使、副使、判官、録治などの役職のもののほか新羅訳語(通訳)、奄美訳語、射手、画家、卜部(占い師)、留学生、学問僧、医師、船匠などを含め、多い時では500人からなる船団であったと言われています。
渡航目的の違い
遣隋使
対等関係を望むための国書を送ると同時に、隋の進んだ技術や制度を学ぶことが目的であったといわれています。
遣唐使
遣隋使の頃と同じように、海外情勢や中国の先進的な技術や仏教の経典などの収集が目的とされたが、遣隋使の頃のようにとりたてて対等関係を望むものではなかったとされています。
遣隋使・遣唐使の渡航頻度
上記の通り、「日本書紀」に見られる遣隋使の派遣回数は3回のみでした。しかし、遣唐使は630年から始まり、以降少なくとも12回(多くて20回)は派遣されたと言われています。
その頻度については、630年、第一回の遣唐使派遣の折り、本来ならば年に1回朝貢しなければならなかったのに対し、日本は遠方であるため毎年でなくてもよいと唐側から許可されたそうです。
その後、状況などを見て派遣されていましたが、「二十年一来(二十年に一度来る)」が8世紀頃までに規定化され、10数年~20数年の間隔で派遣されました。