豊臣秀吉と浅井茶々こと後の淀殿。
この2人は、年齢・体型・出身など、すべてがデコボコに感じる組み合わせで異色の戦国カップルです。
ですが、秀吉と茶々の間には2人の男子が生まれますし、実際は強い絆で結ばれていたと言っても良さそうですよね。
そんな茶々と秀吉ですが、そこに至るまでの経緯はどうだったのでしょう?
正室の北政所とは恋愛結婚だったそうですが、この2人もそういう間柄だったんでしょうか。気
豊臣秀吉にとって茶々とは? 側室に迎えたその理由は
秀吉の側室の大多数は、茶々以外も大名家の息女
基本的に、秀吉という人は無類の女好きで知られています。また名前が知られている側室は、ほぼ全て大名の息女や未亡人。
側室には家臣の娘や、地元土豪の娘などが多い信長・家康とは対照的です。
特に、一度は秀吉に対抗し、破れて降った大名の娘や妻が側室になった例(京極龍子や月桂院、甲斐姫など)は多いです。
そういった意味では、茶々を側室に迎えたのも特に珍しいケースではなかったと言えます。
妹たちが先に嫁いでいった?それは秀吉が茶々に執着していたから?
茶々・初・江の浅井三姉妹に関して特筆すべきことは、長女とされる茶々よりも、妹たちの結婚が先だったらしいことでしょうか。
そこから、「秀吉が茶々を手に入れるためにわざと妹たちを先に結婚させ、彼女に婚期が遅れたと焦らせた」という通説が生まれたようです。一般には、秀吉が三姉妹の母、美貌で名高いお市に憧れていて、一番面影の似通った茶々をなんとしても手に入れたかったのだと言われていますよね。
それが本当だとすれば、姉妹が持つ複雑な心理を突いた、なんとも巧妙な作戦だなと思います。さすがは人たらしと呼ばれた秀吉と言いたくなってしまう話ですね。
けれども、本当に茶々が2人の妹達が結婚した後に秀吉の側室になったのかというと、実はその辺りは記録に残っていません。茶々の名が歴史に登場するのが秀吉の男児鶴松を産んだ1589年頃からであるため、側室になったのは1588年頃だろうと推定されているだけです。
それに、淀殿画像と伝えられている作品(奈良県立美術館蔵)が、お市の方の肖像画(浅井長政夫人、高野山持明院蔵)とは似ていないことも気になります。実際のところ、本人同士はどうだったんでしょう。
また近年の研究で、清洲会議で未亡人のお市が柴田勝家に再嫁することになったのは、秀吉が発案したからだと分かりました。男って、密かに想いを寄せる女性と、内心そのうちコイツは潰すぞと思ってるライバルを、あえて結びつけたり出来るものなんでしょうか?だとしたら、男性心理は複雑すぎてわからないと言いたいです。
私が秀吉でお市を慕っていたとしたら、意地でも勝家にだけは渡しません。
ですので、秀吉がお市に思慕を抱いて想いが叶わず、母似の茶々を手に入れたかった、という従来の説にはどうもあやしい点が多いように思います。
秀吉は茶々の大柄な体型を気に入っていた?
ところで一説に、秀吉が茶々を気に入ったのは彼女が大柄だったからだとも言われます。小柄な秀吉が体格の良い子どもを望んでいたからというのです。
背が高いせいで茶々には輿入れ先が見つからず、結婚が三姉妹の最後になったという説まであります。そう言われてみれば、浅井三姉妹の中で最初に嫁いだ三女の江は、小柄で華奢だったと言いますね。
でも、大女過ぎてお嫁にいけないなんて、庶民でもあるまいし大名家の姫でもそんなことあるんでしょうか。個人的にはそれはちょっと眉唾ものだなと思っていますが。
とは言え、茶々の父長政も、父方の伯母にあたる昌安見久尼という女性も大変大柄でした。お市や伯父の信長も当時の基準からすると長身でしたから、茶々も背が高かったとしても不思議はないのです。データの出し方は議論も出そうな方法ではありましたが、テレビ番組で、茶々の身長は168cm位あったと推測されたこともあります。
実際、2人の間に生まれた秀頼は、小柄だった秀吉とは違い横綱クラスの体格だったと言われます。
さて、色々見てきましたが、今までのところ特に”コレだ!”と確信できる決め手はないなというのが本音でしょうか。
でも、鶴松を産んだ後の茶々が、秀吉のお気に入りだったことは確かでしょう。北政所宛の手紙に「そなたの次に淀殿が気に入っている」と書いたものがありますし、多数いる側室の中で、小田原や九州の戦陣にまで呼ばれたのは茶々と京極龍子だけです。
茶々にとって豊臣秀吉は憎い敵?
一方、浅井家の長女茶々にとって、秀吉は因縁の相手と言えます。故郷の城:小谷城が落城し、父:浅井長政が切腹したのは、父と伯父の織田信長が対立した結果でした。
けれども、その戦いで一番の戦功を立てた武将、つまり実際に先頭に立って小谷城を攻めたのは秀吉です。また、義父となった柴田勝家を滅ぼし、母の死を招く原因になったのも秀吉でした。
ただ、生家を失い母も亡くした後、権力者である秀吉が庇護者になったことは大きな助けになったはず。
そのおかげで妹達に相応な嫁ぎ先が見つかり、その時代なりに安定した生活を送れるようになったとも言えるでしょう。
最終的には男女の仲のことなので、敵味方だからどうこうとか親がどうだからよりも、重視するのはお互いの相性や相手の誠意じゃないでしょうか。
そして、個人的に思うのは、お母さんが手に入らないので茶々を側室にという事ならやっぱり腹が立つだろうなということ。でも、もしそうじゃないとするなら、戦国という状況を考えればこの結びつき、当時の茶々のような不安定な立場にいた女性だったら意外に受け入れられるかも?とも感じました。
秀吉の顔を見るだけでも吐き気がするくらい、生理的に苦手だった場合は別ですけれども。
茶々は仏教に深く帰依していたそうですし、母になる前の辛い人生には深い諦念を抱いていたかもしれません。
最後に
結局のところ、2人の本音がどうだったのか、はっきり判らないままです。
北政所の場合のように秀吉から茶々への手紙も色々残っていれば良かったと思いますが、おそらく大坂落城の時に燃えてしまったでしょうね。
できればドラマや映画などで、今までの茶々像とは違う、エキセントリックでもなく悪女でもなく、気性が激しくない茶々も一度観てみたい気がします。
別の角度から茶々という女性を見直したら、また新しい発見があるのではないでしょうか。