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長篠の戦いで討死した武将は!? 設楽原であえなく散った武田家臣名鑑

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徳川領内の三河国長篠城奪取をもくろみ、包囲した武田軍。

それを契機に世にいう長篠の戦い(1575年)が起こりました。この戦いを描いたいわゆる『長篠合戦図屏風』は、実に8種ほども現存しています。屏風絵として人気の高い題材だったんですね。

それぞれ文化財に指定されたりもしてますので、画像で見た覚えがある方も多いのでは?日本史なんてもう忘れてるよという方でも、”長篠の戦い”という名前だけは、なんとなく頭に残っているという人が多いんじゃないでしょうか。

今日は、その有名な長篠の戦いで討死したという、敗者武田の武将達についておさらいしてみましょう。

内藤・馬場・山県 武田四天王のうち3人までが長篠設楽原で最期を遂げた

長篠の戦いで勝敗を決した合戦、天正3年(1575年)5月21日のいわゆる”設楽原の決戦”では、武田方が決定的な大敗北を喫します。

武田軍の1万5千に対し徳川と友軍織田の連合軍は3万8千だったとされ、記録によれば武田勢の死者はなんと1万以上。信玄公の信頼厚かった武将達も相次いで討死し、武田家臣団は壊滅的な打撃を受けました。

中でも武田家四天王、または武田の四名臣と呼ばれて信玄公在世時にその名を轟かせた武将のうち、実に3人までがこの長篠・設楽原で命を落としているのです。

内藤修理亮昌豊(昌秀) 1522年生-1575年没

武田家譜代家老衆の中にあって、特に武田信玄の側近として仕えていた重臣の1人。

信玄公時代の合戦のほとんどに参加し、西上野の箕輪城代を任されていました。主君勝頼を逃がすために殿軍として踏み止まり、討ち取られたとされます。

馬場美濃守信房(信春) 1515年生-1575年没

同じく武田譜代家老衆の1人。『不死身の鬼美濃』とも異称される武田四天王の筆頭です。信玄公が率いた三方ヶ原の戦い(1573年)では、敗走する徳川勢を山県昌景と共に浜松城まで追いました。

深志城(後の松本城)などの縄張りをしたとされ、築城の名手とも言われている人物です。内藤昌豊同様、殿軍を務めて討死します。

山県三郎兵衛昌景 1529年生-1575年没

朱染めの騎馬軍団、武田の赤備え衆を率いたことで名高い勇将。三方ヶ原では家康を自刃寸前まで追い詰める猛攻をかけたと言われます。

譜代家老衆の1人でもあり、武田家の軍政にも深く関わっていた重臣でした。 犬山城の白帝文庫(愛知県犬山市)が所蔵する長篠合戦図屏風には、首を討たれた山県の姿が描かれています。

なお、武田四天王の残りの1人、春日弾正虎綱(高坂昌信、1578年没)は北信濃にある海津城に残され、長篠の戦いには参加していません。

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他にも武田二十四将から、真田昌幸の長兄:真田信綱らが討死

真田源太郎信綱 1537年生-1575年没

攻め弾正と呼ばれた真田幸隆(1513-1574)の長男で、当時真田家の家督を継いでいた源太郎信綱も長篠の戦いで討死しています。

信綱は信濃先方衆として合戦では主に先鋒を務め、武田二十四将に数えられていました。弟には彼の死後真田家当主となり、2度にわたって上田城で徳川軍を破る真田安房守昌幸がいます。

土屋右衛門昌次(昌続) 1547年生-1575年没

同じく武田二十四将の1人。武田家譜代家老衆にも含まれ、信玄側近の奉行衆、侍大将として若年ながら重く用いられた武将です。

原隼人佐昌胤 1531年生-1575年没

土屋昌次と同様に、武田二十四将および譜代家老衆の1人です。信玄公の元で陣馬奉行(合戦時の布陣等を決める重要な役)を任され、厚い信任を得ていた人物でした。

長篠でも陣馬奉行の立場にあり、本来ならば合戦で戦う義務はなかったのですが、武田の敗色が濃厚となった後に自ら敵陣に突撃、被弾して討死します。

その他の主な武将 - 真田昌幸の次兄:真田昌輝も討死した武将に含まれる

その他討死した武将として、真田信綱の弟・真田徳次郎昌輝(信濃先方衆)、安中七郎三郎景繁(安中城主)、望月左衛門信永(武田信繁の三男で勝頼の従兄弟)、米倉丹後守重継(足軽大将)の名も見つかりました。

こうしてみると錚々たる武将が次々と討たれた様子が窺え、本当に痛ましいかぎりです。

後方の鳶ノ巣山砦の攻防でも甚大な被害を受けていた武田勢

また、この日、武田軍の後方に位置する鳶ノ巣山(とびのすやま)砦など計5つの砦が、徳川軍の猛将酒井忠次指揮する別働隊に襲撃されています。

これらの砦には長篠城監視のため兵が配置されていたものの、少数だったため敗戦は必至。主将の河窪信実(武田信玄異母弟、御親族衆)ほか、三枝守友(足軽大将)、高坂昌澄(春日虎綱長男)、和田業繁(西上野先方衆)等が討死しました。

その他討ち取られた武将として飯尾助友、五味貞成、名和無理之助(宗泰)の名が見られ、『信長公記』には彼らを”七首の攻衆”と呼ぶ描写が残ります。

三枝宗四郎守友(昌貞) 1537年生-1575年没

その中の1人三枝守友は、武田二十四将に数えられている武将です。彼に関わる文書には信玄公直筆のものが多く、親しく用いられていた人物と思われます。姥が懐の支砦で、弟2人と共に討死しています。

長篠の戦い、徳川・織田方の損害は

一方、徳川織田連合軍の損害の方はどうだったのでしょうか?

設楽原の決戦では、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、織田信長は三重の馬防柵を築かせて、決してその前へ出るなと命じたそうです。

この作戦が功を奏したのか、織田・徳川方の死者はわずか60人余り。もちろん、命を落とした武将もいません。

僅かに鳶ノ巣山砦攻防戦で討たれた松平伊忠、そして武将ではありませんが、長篠城に籠城していた徳川家臣:奥平貞昌への伝令を務め、勇名を馳せた足軽、鳥居強右衛門(すねえもん)などの名が残る程度です。

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生き残った武田方の主な武将たちは

しかし、武田の将もこの長篠で全滅したという訳ではありませんでした。

生き残りの武将には御親族(御親類)衆が多く、武田信玄の弟にあたる武田信廉と一条信龍、妹婿の穴山信君、勝頼の従兄弟で武田信繁嫡男の武田信豊、譜代家老衆では小山田信茂などの名が見えます。

武田二十四将の1人土屋昌次の弟で、勝頼の側近を務めた土屋昌恒、また同じく勝頼側近の初鹿野信昌・跡部勝資・長坂釣閑斎なども生き残りました。側近が死ななかったのはまあ当然かもしれませんね。側で守る人まで死んでしまっては、勝頼の命も危ないわけですから。

土屋昌恒は天目山の戦いの後、勝頼が自害する時間を稼ぐために奮戦したと伝わります。崖沿いの山道に立ち、滑り落ちないよう片手で藤蔓を掴んで身を支え、残りの片手で千人を斬ったと言われ、後にその戦いぶりを『片手千人斬り』と称えられました。千という数は正確とは思えませんが、状況を想像してみると、その光景も何とも凄まじいかぎりです。

また、別方面の守備を任されていた等の理由で、長篠で討死しなかった武将もいました。例えば前述した春日虎綱などです。信玄公に『わが両眼』と呼ばれ重用されていたという真田昌幸も、長篠には従軍していません。なお、武田家滅亡後はその勇猛さを高く評価していた徳川家康の許に、多数の武田遺臣が召し抱えられます。

ナカガワ マスミ

投稿者プロフィール

戦国時代から昭和史まで、歴史には幅広く興味を持ち、色々調べ出したら止まりません。
合戦の話も好きですが、文化史が特に好き。そういう意味では平安中~後期も愛していますね。
皆様にも是非「歴史って面白いんだ!」と思って頂きたいと思いながら、記事を書いています。応援よろしくお願いします。

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