豊臣秀頼は落城後どこへ? 墓は鹿児島にあるという伝説を検証
大坂城落城の際、切腹したとされる豊臣秀吉の息子・秀頼。
しかし、その一方で生存説もあります。
彼の墓はどこにあるのでしょうか。
遺体がない?
慶長20年(1615)5月8日、燃え上がる天守閣の北・山里丸の蔵の中で秀頼や淀殿らは自刃して果てました。
淀殿の命で放たれた炎が消え、東軍が踏み込むと、そこには真っ黒になった骸が転がっていたといいます。
それは男女の区別さえつかず、ましてやどれが秀頼のものか判別することはできませんでした。
このことが秀頼生存説を生み出すこととなったのです。
秀頼は薩摩へ?
では、秀頼はどこに逃げたのかというと、その行き先は薩摩だったという話が大坂の役の後まことしやかに噂されました。
京都では「花の様なる秀頼様を、鬼のやう成る真田がつれて、退きものいたよ加護島へ」というわらべ歌までつくられたそうです。
このことは他にも、平戸のイギリス商館長・リチャードコックスが日記に「秀頼様は薩摩あるいは琉球に逃れたとの報あり」と記されていますし、『真田三代記』にも幸村と幸村の嫡男・大助、さらには長宗我部盛親や後藤又兵衛と共に秀頼が薩摩に下ったと記されています。
鹿児島市の谷山には秀頼の墓と伝えられている宝塔もあります。
墓の下からは何も出なかったということで、初代谷山氏の墓とも考えられているようです。
谷山に伝わる秀頼の薩摩落ち伝説
谷山にある墓はともかく、谷山には秀頼の薩摩落ち伝説に関する言い伝えが多く残されているそうです。
例えば、谷山地区には「谷山犬のくれ逃げ」という言い伝えがあります。
これは、秀頼が毎日大酒を飲んで町中を暴れまわったり、無銭飲食を繰り返していたことに由来するそうで、町の人たちは秀頼に手出しができないため、秀頼から逃げ隠れして過ごしていたといいます。
古い資料には谷山地区の人たちが食事の支払いを忘れて席を立とうとすると、「あの人は谷山のひとだからね」といわれたという記述があるそうです。
何だかとばっちりな感じがしますね。
秀頼の遺骨発見!?
しかしながら、昭和55年(1980)の大坂城三の丸の発掘調査で三人の頭蓋骨と馬1頭の頭の骨が発見され、その中に秀頼のものではないかとされる骨が発見されました。
秀頼のものと考えられた理由は、その骨が20代の男性のものだったこと、顎に介錯されたとみられる傷があったこと、左耳に障害があった可能性があったことです。さらに骨から類推される体格も伝えられている秀頼のものに似ていることも理由とされています。
この骨は現在、「三国伝来の釈迦像」で有名な京都嵯峨の清涼寺に埋葬されています。清涼寺の本堂が秀頼の寄進により造営された縁によるものかもしれません。