大坂夏の陣後 真田幸村の子達はどうなった!?
大坂夏の陣で戦死したとされる真田幸村。
嫡男である大助は大坂城落城の際、秀頼の切腹の後自らも腹を切って果てたといわれていますが、その他の遺児たちはどうなったのでしょうか。
重綱の後室となった阿梅
大坂夏の陣の5月5日、幸村は密かに家臣二人を片倉小十郎重綱の陣に遣わしました。
そこで、幸村の愛娘・阿梅を重綱に託したいと申し出ます。
数ある東軍の武将の中から重綱が選ばれた理由は、大坂城から諸大名の陣所を見渡したが、娘を託すことができる者は、重綱公だけだと思った。公は英才をもって勇武を兼ね、兵鋒の向かうところ敵なしの天晴武臣というべきであるというもの。
重綱は夏の陣で伊達正宗軍の先鋒として、伊達軍が打ち取った首級810のうち、5分の1を挙げる活躍をしています。
このエピソードは『仙台士鑑』に記してあり、真偽のほどは不明ですが、それはともかく大坂の役の後、重綱は17歳の阿梅を自身の城・白石城の二の丸に匿ったのです。
阿梅はその後、重綱の後室に入り、先妻の一人娘の息子・景長を養子にもらい、片倉家の後継ぎに育て上げました。
重綱の養女となった阿菖蒲
阿梅を頼っておかねと阿菖蒲という二人の妹も仙台へやってきました。
阿菖蒲は重綱の養女となり、重綱の主君である伊達正宗の正室・愛姫の実家・田村家の田村定広に嫁ぎました。
田村家の墓所にある阿菖蒲の墓の斜め横には幸村の供養墓も立てられています。
重綱の家臣となった守信
もう一人、阿梅を頼って仙台を訪れたのが幸村の次男・守信です。
重綱はこの守信を家臣として召抱え、その後伊達家家臣に取り立てられ300石の禄をもらいました。
伊達家は守信の存在を隠すため、「大八君(守信の幼名)八歳の時京都にて印地打ち観覧中石に当たり他界」という虚報を流したといいます。
さらに幕府から守信の調査が命じられた際には、幸村の祖父の四男・真田信尹の次男・政信の子と偽証しました。
その後、守信の息子・辰信の代には公に真田姓を名乗ることが許され、現在もその子孫は仙台真田家として続いています。
片倉家はなぜ幸村の遺児を保護したのか?
なぜ、片倉家や伊達家はこれほどまでに幸村の遺児を保護したのでしょうか。
その理由として仙台真田家14代当主・真田徹氏はいくつかの可能性を挙げています。
一つは片倉家と真田家のつながりです。
片倉家というのはもともと信濃国諏訪郡の豪族で、代々諏訪下社の神主を勤めていました。
一方、真田家も信濃国小県郡の出身で、修験者とつながりがあったと考えられています。
こうしたことから「同郷・同職」である真田家と片倉家には古くからのつながりがあったと考えられるのです。
二つ目は政宗の陰謀です。
政宗は幕府転覆をはかるため、慶長遣欧使節団をローマに派遣したともいわれており、徳川に味方する姿勢をみせながらも虎視眈眈と天下を狙っていたと考えられます。
共に家康の死を願う者同士、幸村と政宗の間で利害の一致があり、自分に何かあったときには政宗を頼るようにと言い含められていたのかもしれません。
それにしても、すでに死去した幸村の遺児たちを匿うことに何のメリットもないわけで、その点ではやはり美談として語られて当然といえるでしょう。
または家康が恐れた幸村の子を匿い生かしておくことは、政宗にとって幕府へのちょっとした反抗だったのかもしれませんね。