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大坂冬の陣 開戦のきっかけは徳川方の言い掛かり!?

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慶長19年(1614)年11月、豊臣秀頼率いる10万人が籠る難攻不落の大坂城に徳川家康は20万余の大軍を率いて対峙しました。

これが大坂冬の陣の始まりです。

この天下を揺るがす大戦のきっかけは、ある寺の鐘に刻まれた8文字だったといわれています。

一体どういうことなのでしょうか。

方広寺の再建

きっかけとなったのは京都にある方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という8文字だったといわれています。

方広寺というのは豊臣秀吉により「京の大仏」とも呼ばれる盧舎那仏を安置するために創建された寺です。

しかし、慶長元年(1596)の大地震が原因で大仏も大仏殿も倒壊、秀吉の死後そのままとなっていました。

そこで慶長13年(1608)家康の勧めもあり秀頼は大仏の再建に着手することとなりました。

慶長19年(1614)、最後の仕上げとして梵鐘が完成します。ここに記されていたのが「国家安康」「君臣豊楽」だったのです。

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「国家安康」「君臣豊楽」はなぜ問題?

梵鐘が完成し、あとは家康の承認を待つのみとなったところに、家康からの抗議文が届きました。

「梵鐘の銘文に不吉な語句がある」というわけです。

なぜ不吉かというと、家康の名前が切り離されているからというのですが、これは一体どういうことなのでしょうか。

私たちは「家康」という名前を普通に使って呼びますが、当時の人たちは彼を「家康」とは呼びませんでした。なぜなら「家康」というのは諱(いみな)だからです。

諱というのは、「忌み名」のことで口に出すことが憚られると考えられていた名前です。呼ぶことができるのは親と主君だけで、それ以外の人が呼ぶことは無礼と考えられていました。

さらに言えば、「諱を知られると呪いをかけることができてしまう」という考えから簡単に人に教えてはいけないという側面があったとも言われています。

そういえば、『天空の城ラピュタ』でヒロインの女の子・シータが本当の名前として「リュシータ・トエル・ウル・ラピュタ」と名乗るシーンがありますが、当時の人たちにとっての諱もそうしたものであったのではないでしょうか。

そんな大切な諱「家康」が切り離されているのは、家康を呪うためである。

さらに「君臣豊楽」とは豊臣を一つにして栄えることを願うためである。

家康のブレーンである儒学者・林羅山のこうした意見は、京都五山の僧たちも巻き込んで大きな事件になってしまったのです。

豊臣側の意図は?

方広寺の梵鐘の銘を考えたのは、京都五山の別格に位置づけられていた南禅寺の長老・清韓でした。

清韓は抗議文を受けて弁明のため駿府城を訪れています。

清韓によると、確かに「家康」の字は意識して入れたものであるが、そこには祝いの気持ちがあったのであり、決して悪意があったものではないというのです。

しかし、清韓の弁明は取りあってもらえず、徳川・豊臣両家の対立が深まる結果となってしまいました。

しかしながら方広寺の梵鐘に記された銘というのは十数文字レベルではなく、何百という文字がある中で、その8文字を見つけてそこに呪いの意図を見出すというのはそう簡単なことではなかったのではないか、と思います。

見つけたのは先ほども触れた儒学者・林羅山ですが、よくぞ見つけたという感じです。

仕事が丁寧なのか、はたまた暇だったのか。もしくは少しでもおかしな点があれば報告するように言われ、懸命に落ち度を探していたのか。。。

徳川方の「言いがかり」という感じもしますが、諱の字を避けるため改名することも行われていた時代に、「祝いの気持ち」とはいえその文字を入れるのは少々軽率だったと責められてもしょうがないのではないでしょうか。

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