徳川家康は、幼名を”竹千代”といいます。
竹千代は人質として不遇の年月を過ごしたとされていますが、実際はどうだったのでしょう?
今川と織田、本来どちらの人質だったのでしょう?
謎に迫ります。
流転の人質
徳川家康(竹千代)は、三河国の岡崎城主・松平広忠の子として生まれます。
しかし、当時の松平家は弱体化し、両隣に今川氏、織田氏とが存在しており、どちらかに庇護を求めなければ生き残れないような状態でした。
広忠は今川氏を頼ることにします。
すると、今川氏から「裏切らない証に人質を差し出すように」と要求され、後継ぎ候補である竹千代を泣く泣く今川氏の元へ向かわせることになるのです。
何故か織田家へ
ところが、この移動の途中、竹千代は織田側へ連れてこられることになります。
父が助けを求め、竹千代を差し出したのは今川氏のはずです。
何故でしょうか?
これは今川義元の命を受けて、竹千代を今川方へ送り届ける予定だった戸田康光が織田側へ寝返ったためです。
彼は金目当てで竹千代を織田へと売ったのです。
家のため、父のためと決死の思いで人質となったであろう竹千代。
この裏切りを聞いてどう思ったのでしょうね。
そんな目に逢った竹千代は、当時まだ6歳でした。
さて、竹千代を横取りした織田氏は「竹千代はこっちにいるから、織田の味方になりなさい」と広忠に呼びかけます。
ですが、広忠は「殺したければ殺して下さい。松平広忠は今川の味方です」と、織田の要求を突っぱねます。
一説によりますと、この返答に怒った信秀(信長の父)は、竹千代を殺そうとしましたが、一目見てなんとも賢そうな子だと感じ、殺すには忍びないとして織田家の人質として扱うことにしたということです。
本来の今川家の人質として
織田家と今川家の話しあいの結果、2年後に竹千代は本来の今川家へ人質として送られることになります。
彼は駿府の人質屋敷へと送られたのでした。
当時、竹千代は体が弱く病弱であったため、母方の祖母が付き添っていたとされます。
ですが、駿府では軍師・大原雪斎が竹千代の教育係についたといわれています。
大原雪斎は軍師として名高い人物であり、禅僧であり、また今川義元の教育係も務めた人物でした。
人質といえども、駿府では厚遇されていたようです。
お互いをどう思っていたか
さて、人質にした側とされた側ですが、両者はどのように思っていたのでしょう?
残念ながら、それに関する資料等は見当たりませんでした。
エピソードとして、今川義元のもとへ竹千代が来たときに、腹の立つことがあったそうです。
竹千代は怒りのままに義元の前で立ち小便を始め、それを見た義元は「将来大物になるに違いない!」と笑っていた。というものがあります。
ですから、義元は竹千代を憎からずは思っていたのでしょう。
竹千代は徳川家康となったとき、桶狭間の戦いで敗北していた今川家(当時は今川氏真が当主でした)を高家に上げました。
大名とはならないまでも、一応今川家が復興することを許したわけですね。
元服の際にも「元康」とし、義元の「元」の字を戴いています。
以上のことから、竹千代もそこまで今川家を悪くは思っていなかったのでしょう。
何故冷遇された?
当時の人質というのは、裏切りでもしない限りかなり厚遇されていました。
扱いは預けられている側の家臣と同等程度だったようです。
では、何故竹千代は冷遇されていたとなるのでしょうか?
それは家康となってからの本人の話しによるようです。
「人質として苦労した」とでもしておけば、今川から独立した理由も立つでしょうし、また「今川義元は酷い奴だ」というイメージも植え付けられたでしょうからね。
竹千代は、思うほど苦労した人質時代は過ごしていないということになりますね。
こうやって印象を操作するのが「狸」と称されるゆえんなのでしょうか…?