浅井長政は織田信長によって討たれました。
その後、討たれた長政の髑髏を信長が盃にした…という話がありますが、本当でしょうか?
そして、長政の最期はどのようなものだったのでしょう?
謎に迫ります。
浅井長政の髑髏
1574年元旦、岐阜城にて信長は年賀の宴を開きます。
馬廻の人々だけとの祝宴になったとき、信長は黒塗りの箱から3つの髑髏を取り出します。
この髑髏は”箔濃”という加工がされており、漆塗りした上に金粉をかけたものでして、つまりは金色の髑髏でした。この3つの髑髏を部屋の3方に置いて、宴の肴としようではないか…との話です。
この3つの髑髏というのは、前年(1573年)信長が討ち取った、越前の朝倉義景、近江の浅井久政と長政親子のものでした。
盃にしたのか?
『信長公記』には馬廻りの衆に披露した、とだけ記述されています。
一方で『浅井三代記』には、髑髏を盃にしたとの記述があります。
どちらが正しいのでしょうか?
『信長公記』は江戸時代初期に信長一人の年代記としてまとめたもので、信憑性は高いとされています。
『浅井三代記』は江戸時代中期に書かれたもので、幅広い人々に読まれたようです。
ですが、架空の出来事が多く信用性には欠けます。
以上のことを踏まえて、髑髏を披露したけれど、盃にはしなかったと言えるのではないでしょうか。
盃にしたのは、後世の創作だと考えられています。
因みに髑髏を盃にする”髑髏杯”というものはありまして、主に中央ユーラシアあたりに散見されます。
披露した理由
現在の感覚で考えると、討ち取った相手の遺骸を装飾して見せびらかすなんて、悪趣味ですよね。
死者への冒涜ではないでしょうか。
しかし、当時はそうではなかったようです。
当時は討ち取った首を荼毘にふして、その遺骨を7年間供養することで、それは成仏出来る…という考えがありました。
ですから、髑髏を装飾して披露するというのは、信長とともに酒宴を楽しんでもらうという解釈になります。
装飾して披露するというのは、信長なりの3人に対する供養だったのでしょう。
決して冒涜ではなかったのです。
長政の最期
髑髏を所有された長政ですが、彼はどうして信長に討ち取られることになったのでしょう。
浅井と同盟を組んでいた朝倉氏の領土に、信長は勝手に攻め込みます。
これを約束違反と見なした浅井長政は、信長と敵対することになりました。
1570年に姉川の戦いが勃発し、両軍は戦います。浅井軍はどうにか織田軍を退けたものの、被害は甚大でした。
1573年に信長は再び近江を攻めますが、浅井は姉川の戦いで受けた被害が深刻なまま劣勢で、居城である小谷城へ撤退することになります。
信長は長政に対して何度も降伏勧告をしたようですが、長政はガンとしてこれを拒否しました。
お市の方は長政と運命をともにしようとしますが、これを不憫に思った長政は、配下に命じてお市の方と娘たちを織田軍へ送り返させます。
お市の方が無事に織田軍へと渡った後、織田軍からの総攻撃が始まりました。
もはやこれまでと、浅井長政と父である浅井久政は小谷城にて自害しました。
箔濃の髑髏
多分、信長は落城後に長政たちの首を探させ、それで髑髏を得たのでしょうね。
それを綺麗に装飾し、長政たちの成仏を願っていたのだとしたら…信長もそんなに冷酷な人間ではなかったのでしょう。
一度は妹の嫁いだ相手だからでしょうか、それとも個人的に長政を認めていたのでしょうか?
両方だったら良いなと思うのですが、それは望みすぎでしょうかね。