栄華を極めた藤原道長の死因は、糖尿病だった?
平安時代の貴族で、栄華を極めた人物といえば藤原道長です。
自分の娘たちを次々と天皇と結婚させ、自身は外祖父として権勢を振るいました。
そんな藤原道長ですが、晩年は子供たちに先立たれ、自身も病に侵され、苦しみます。
道長の死因は何だったのでしょうか。
今回は道長の症状から考えられる死因、そして当時の貴族の食生活について、迫っていきます。
藤原道長の死因はなんだったのか?
藤原道長は、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルだったとも言われる、摂関政治の全盛期を築き上げた人物です。
道長は、娘の彰子を一条天皇と結婚させ、孫である後一条天皇が即位すると摂政に就任しました。
その後、次々と3人の天皇の外祖父となり、自身は保護者・後見者として摂関政治を行いました。
こうして、栄華の絶頂であった藤原道長が宴で詠んだ有名な歌があります。
「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」『小右記』
この世の全ては、私(道長)のためにあるようなものだ。
私の心は、この満月のように何も足りないものなどない。
しかし、この有名な望月の歌を詠んだ年のころから、道長は体調を崩し始めます。
平安時代、病気の原因は怨霊の祟りであると考えられていました。
そこで、道長は出家し、念仏を唱える日々を送ります。
ある程度、健康は回復するのですが、出家の6年後に、三女・寛子が病死、六女・嬉子が難産の為、急死。2年後には三男・顕信と次女・妍子も死去します。
相次いで、子供たちに先立たれた道長は、ショックで衰弱し、危篤に陥ります。
周囲の親族は、もう長くはないと、道長を阿弥陀堂に運び込み、九体の阿弥陀如来像の前に寝かせ、阿弥陀如来像の手から五色の糸を伸ばし、道長の手に握らせました。
そして、道長はとうとう息を引き取ります。62歳でした。
その死因は、記録から糖尿病ではないかといわれています。
糖尿病説と言われる理由は? 他にも糖尿病で死亡した人物がいる!
糖尿病の主な症状には、「のどの渇き」「急激な体重減少」「視力障害」「傷の治りが遅い」などがあります。
晩年の道長の様子を記した藤原実資の『小右記』という書物には
- のどが渇いて水を大量に飲んでいる
- 痩せて体力が無くなった
- 背中に大きな腫れ物ができた
- 目が見えなくなった
等の道長に関する記述が残っており、ここから道長の死因は、糖尿病による合併症ではないかと言われています。
また、道長の伯父である伊尹、兄の道隆、甥の伊周、孫の後一条天皇らも同様の症状で亡くなっており、藤原道長の家系は糖尿病の遺伝子を持っていたとも考えられます。
当時の食生活はどんなものだったのか
糖尿病の3大原因は、肥満、運動不足、ストレスです。
平安時代の貴族の食事は、どんなものだったのでしょうか?
当時、貴族の食事では味や栄養よりも、盛り付けなどの見た目の美しさが重要視されていました。
蒸した白米を大盛りにした強飯とよばれるご飯に、おかずは鮑を蒸したものや、魚の塩漬けなどの保存食が中心で野菜類は和え物や漬物が少々あるくらいでした。
また、御膳には、塩、酢、醤(味噌の原型)、酒といった調味料が入った小皿が一緒にのっており、ご飯などは自分で味付けをして食べていました。
このように保存食が多く、また自分で味付けをするため、全体的に塩分摂取量が多い食事でした。
貴族は室内の生活が中心で運動することはほとんどありません。
特に道長は、自身の地位を守る為にライバル達と争い、ストレスを受けていました。
平安貴族が全盛期を迎えたころの貴族たちの推定平均寿命は、男性が50歳、女性が40歳と言われています。
その中で、62歳で亡くなった道長は長生きですが、晩年は病に侵され、苦しみのなか亡くなったのではないでしょうか。