明治政府の優れた政治家と言われれば誰を思い浮かべるでしょうか。
初代内閣総理大臣となった伊藤博文?
困窮した武士のために立ち上がった西郷隆盛?
もしくは自由民権運動を主導した板垣退助でしょうか?
多くの名前が上がると思いますが、こうした人達が第一の人として名前を挙げたのが長州藩出身の木戸孝允と薩摩藩出身の大久保利通なのです。
徳富蘇峰はそんな二人の関係について「両人の関係は、性の合わない夫婦のように離れれば淋しさを感じ、会えば窮屈を感じる。要するに一緒にいる事もできず、離れる事もできず、付かず離れずの間であるより、他に方便がなかった」と語っています。
二人はどんな関係だったのでしょうか。
対照的な二人の性格
並び称される木戸と大久保ですが、二人の性格は対照的なものでした。
肩書に関わらず細やかな配慮を怠らず、風流を好み、騒ぐのも大好きという陽気な木戸に対して、大久保は寡黙で他を圧倒するオーラがあり、面と向かって大久保に意見できる人物はほとんどいなかったといいます。
ある時、内務卿だった大久保が登庁すると、その靴音が廊下に響いただけで職員が私語をやめ、水をうったように静まり返ったなんて話があるほど。
学校の先生にも生徒が寄ってくるタイプの先生と廊下を歩くと自然に道ができる先生がいますが、そんな違いが二人の間にはあったようですね。
互いに認め合う二人
大久保は自信家で簡単に他人を認めるタイプではなかったといわれていますが、そんな彼も木戸のことは認めていたとされています。
大久保自身、木戸について、「台湾の一件(台湾出兵のこと)では対立したが、それは行きがかり上のことで、基本的な政治の考え方は木戸君と同じである」という趣旨のことを語っています。
その一方で木戸も「大久保先生の人物には少しも批判するところはなく感心し尊敬の念を抱いている」と言っていたそうです。
二人は性格の違いから対立することも多かったそうですが、互いの識見や決断力、行動力を認め合い尊敬しあう関係だったようです。
顔を合わせれば意見を対立させ論を闘わせた二人も、心の奥底では認め合っていたなんて、徳富蘇峰の言うように二人の関係は「夫婦のような」と表現するのがふさわしいかもしれませんね。
また、周りが大久保のオーラに圧倒され意見してこない中、堂々と意見を述べる木戸は大久保にとって貴重な存在だったのでしょう。台湾出兵に抗議し政界を下野した木戸を呼び戻すため尽力したのも大久保でした。
木戸の最期を看取った大久保
対立の多かった二人ですが、木戸の最期を看取ったのは大久保でした。
持病の悪化により床に伏せた木戸を大久保は見舞っています。
木戸は朦朧とする意識の中、大久保の手を握り「西郷もいいかげんにしないか」と言って息を引き取ったそうです。明治政府のことを心配しながらの最期でした。
大久保の心に木戸のこの言葉はどう響いたのでしょうか。
その後、大久保は第1回内国勧業博覧会を開催、日本の殖産興業の発展に寄与しましたが、1878年木戸と西郷の死去の翌年に紀尾井坂の変により暗殺されました。享年49。
木戸の遺志を受け継ぐことのできる唯一の人物であった大久保も凶刃に倒れ、その後の政治は残された後輩たちに託される事となったのです。