高杉晋作の愛刀はどんな刀だった?
奇兵隊を創設し、長州藩を尊王攘夷に導いた高杉晋作。
そんな彼の愛刀は何だったのでしょうか。
晋作の剣の腕前は?
長州藩士で剣の腕前が優れていた人物としては、一度も刀を抜かなかったといわれる桂小五郎がよく知られています。
では高杉晋作はどうだったのでしょうか。
高杉晋作はもともと武家の出身で、幼少期から木刀を腰に挿していたといわれており、その刀が遺品として残っているそうです。
そんな高杉は14歳で藩校・明倫館に入学、内藤作兵衛から柳生新陰流を学び、22歳のときには免許皆伝を受けています。
内藤作兵衛は明倫館の師範代で、桂小五郎も明倫館時代に作兵衛から剣術を学んでいます。
そんな高杉が人を斬ったという記録が一つだけあります。
1862年(文久2)、幕府の密偵と噂されていた宇野八郎を斬ったというのがそれで、これ以外には少なくとも記録に残っていません。
人以外であれば、犬を斬ったという話があり、その話を聞いた吉田松陰は「もって志気の劣えが知れる」と嘆いたそうです。
この二つしか刀を振るった例がありませんので、その実力のほどはわかりませんが、免許皆伝を得ていることから、それなりの実力者だったと考えられます。
愛刀は?
少々長めの刀が好みだったといわれる高杉の愛刀が「安芸国佐伯荘藤原貞安」と「粟田口」です。
「安芸国佐伯荘藤原貞安」は二尺七寸あり、当時の通常サイズが二尺三寸ですから少々長めです。これを高杉はいたく気に入り、明治の元勲・田中光顕に無理を言って譲ってもらったという話があります。
ちなみに2015年3月には「侍箸・日本刀 高杉晋作」という商品名で、「安芸国佐伯荘藤原貞安」をモチーフにした箸が発売されるそうです。
高杉晋作ファンには高杉を象徴する刀が「安芸国佐伯荘藤原貞安」なのでしょう。
もうひとつの「粟田口」についてですが、「粟田口」といえば鎌倉時代の名工「粟田口籐四郎吉光」を思い出しますが、吉光の作であれば現在の国宝級ですので、さすがの高杉も持つことはできなかったでしょう。
そこで少し調べてみますと、坂本龍馬が兄・権平から陸奥守吉行をもらった際の喜びの手紙の中に「吉行の刀…京地の刀剣家にも見せ候所、皆、粟田口忠綱位の目利仕候。」と、「粟田口」の言葉が見えます。
この「粟田口忠綱」というのは、一竿子忠綱(いっかんしただつな)のことで、江戸時代中期ごろに活躍した摂津の刀工です。
忠綱の刀は1784年(天明4)に江戸城内で老中・田沼意次の子、意知を暗殺した際に用いられたことで人気に火がつき、さらに暗殺を行った佐野政言は「世直し大明神」と呼ばれたそうです。
はっきりとはわかりませんが、高杉が愛用していた刀が「粟田口忠綱」であれば、まさに「世直し」を掲げ奔走していた高杉が帯びるにふさわしい刀という感じがします。