長州藩出身で、幕末期には尊王攘夷・倒幕運動に参加し、後に初代内閣総理大臣に就任した伊藤博文。同じく長州藩士で、奇兵隊などを創設し尊王攘夷の志士として活躍した高杉晋作。この二人はどんな関係を築いていたのでしょうか。
高杉晋作はいつ塾に入った?師・吉田松陰の評は?
高杉晋作は天保10年(1839年)長州藩の中級武士の長男として生まれました。高杉晋作は安政4年(1857年)19歳の時に、田松陰が主宰していた松下村塾に入門しました。すぐに頭角を現し、久坂玄瑞・吉田稔麿・入江九一と並んで「松下村塾四天王」と称されました。また「識の高杉、才の久坂(玄瑞)」とも言われるほどでした。
ちなみに、師である吉田松陰は、高杉が悔しさで伸びるタイプであることに気づき、彼の幼馴染でライバルの久坂玄瑞を意図的にべた褒めしたそうです。これに発奮した高杉は学問に打ち込んだと言われています。
伊藤博文は師である吉田松陰にどう思われてた?
一方の伊藤博文は、晋作より2年遅れの、天保12年(1841年)長州藩の貧農の息子として生まれました。彼もまた高杉と同じ年の安政4年、17歳の時に松下村塾の門を叩いています。しかし、伊藤博文は身分が低かったため、外で立ち聞きすることを強いられていました。
師の吉田松陰には「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」「俊輔(松陰が博文に与えた名前)、周旋(政治)の才あり」と評されていました。
さて、そんな伊藤博文と高杉晋作ですが、年も近く、同じ長州藩出身ではありますが、身分が違うためそれまでには交流がなく、初めて会ったのはこの松下村塾でだったと言われています。伊藤博文は高杉晋作を兄貴分的な存在として見ていた様です。
伊藤博文は高杉晋作をどう評価をしていたのか?
さらに伊藤は高杉を「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然として正視する者なし、これ我が東行高杉君に非ずや。」とも評しています。
この意味は、「動けば雷電のようで、(言葉を)発すれば風雨のようである。多くの人はただ驚き、正視できる者はいない。これが我らの高杉君なのである。」ということです。誰もが思いつかないことを思いつく型破りな高杉の行動を大いに評価していたのがわかりますね。
伊藤博文の「人生において誇れること」
第一次長州征討の時に敵対する派閥である長州藩の俗論派討伐のために、高杉が力士隊を率いて功山寺で挙兵をしました。
この時一番に駆け付けたのが伊藤博文だったと言われています。伊藤は後にこの時のことを、「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、この時、一番に高杉さんの元に駆け付けたことだろう」と述懐したとされています。
高杉晋作が日本の領土を救った
文久3年(1863年)8月、英・仏・米・蘭による4か国連合艦隊による下関砲撃が行われ、砲台が占拠された事件がありました。この時の和平交渉に高杉晋作が派遣されました。
高杉は、連合国のほぼすべての提示条件をのみましたが、「彦島の租借」については頑なに受け入れず、取り下げさせることに成功しました。この時通訳として高杉についていた伊藤博文は、後に自伝で「もしこの要求を受け入れていれば、日本の歴史は大きく変わっていただろう」と書いています。
また「あの時高杉さんがうやむやにしていなければ、彦島は香港になり、下関は九龍半島になっていただろう」とも言ったと記録されています。