平清盛の死因は髄膜炎だった?
平清盛は武士として初めて太政大臣になり、娘を天皇と結婚させ、「平氏にあらずんば人にあらず」と言われる時代を築いた人物です。
しかし、その独裁により他の貴族や武士などから反発を受け、平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で亡くなります。
今回はその死因と平清盛が死んだことによる影響について、考察していきます。
平清盛の死因は何だったのか?
平清盛は平安時代末期の武将で、それまで貴族(藤原氏)中心に行われていた政治を、武士中心の政治へと変えさせた人物です。
しかし、権力を得た平清盛は、次第に貴族化していき、武士から反感を持たれ始めます。
ついに1180年には、天皇の第三皇子である以仁王が全国の源氏に対し、平氏打倒の命令を出し、源頼朝をはじめとする源氏が各地で挙兵します。
その戦いの中の1181年2月、清盛は熱病にかかり、64歳で亡くなってしまうのです。
『平家物語』では、清盛の症状を以下のように書いています。
清盛は、発病の日から水も喉を通らず、身体の熱さは、まるで火を焚いているようだ。
また、清盛が休んでいる7~9m以内に入る者は、その熱で熱くてたまらないという。
そこで、比叡山から汲んできた水を石の風呂に入れ、浸かって身を冷やすそうとするが、水は沸きあがり、お湯になってしまった。
今度は、筧の水を身体に注ぎかけると、焼け石に水をかけるように、水が蒸発してしまい水がかからない。
少し身体に水がかかっても、炎となって燃えるので部屋中が黒煙でいっぱいになった。
そして、清盛は4日もの間、悶え苦しみ、ついには亡くなった。
その症状から、「マラリア」「インフルエンザ」「猩紅熱」「脳内出血」「肺炎」などの死因説があります。
一番、可能性がある死因はなにか
しかし、発症したのは2月4日(今の暦で3月20日頃)です。
「マラリア」の潜伏期間は、約2週間とされ、蚊によって媒介します。
そこで、季節から考えても、死因は「マラリア」ではないのでは?と言われています。
また、「マラリア」などの熱病にかかると意識が混濁し、意味不明な言葉を口にするとされていますが、平清盛は高熱にうなされながらも、意識は比較的しっかりしていました。
何故なら、平清盛は病床の遺言として
「私が死んだ後は、供養塔を立てる必要はない。また仏事法要も行わなくてよい。それよりも、源氏に追手を差し向け、源頼朝の首を刎ねて、私の墓の前に供えるように」
と冷静に残しているからです。
九条兼実の日記『玉葉』によると、平清盛は、発病当初、頭痛に悩まされていたとあります。
頭痛やめまいが起こり、高熱を発した後に痙攣を起こして亡くなったという症状から、現在では死因は髄膜炎だったのではないかと言われています。
清盛が死んだことによる影響は
平清盛が亡くなったのは、平氏打倒の気運が高まり、源氏の勢力が活発な動きを見せていた最中でした。
一門のトップであった平清盛が急死し、平氏は統率力を欠くようになります。
平清盛には、嫡男である平重盛という優秀な後継者がいましたが、清盛が亡くなる前に、病死していました。
平氏の跡目は三男・平宗盛が継ぎますが、残念ながら平宗盛は凡庸な武将で、政治に戦いも才能がありませんでした。
兵力や財力など、圧倒的に平氏が有利な状況でしたが、平宗盛は使いこなすことができません。
源氏側はというと、源頼朝・木曾義仲・源範頼・源義経など優秀な武将が揃っていました、
ついに、平清盛が亡くなった4年後の1185年、壇ノ浦の戦いで平氏は敗れ、滅亡します。
その後、1192年に源頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府が成立します。
そして源頼朝は、平清盛のように貴族化することなく、武家により政治を執り行っていきます。