佐竹義宣の肖像画はどうして片足で描かれている!?
甲冑を頬当てまでもフル装備し、武具箱に腰かけた一人の武将の肖像画。
清和源氏の嫡流をくむ、秋田藩初代藩主佐竹義宣その人です。
こちらの肖像画、なぜが片足だけしか書かれていません。
今回はその片足の肖像画の謎を検証したいと思います。
素顔は家臣も知らない!?
佐竹義宣といえば、天下分け目の関ヶ原であいまいな態度を取ったことが原因で常陸の国54万石の大大名から、20万石の出羽の国秋田藩に転封となった武将です。
戦国の世、常陸時代は「鬼の佐竹」の異名を持つ父の佐竹義重と共に、多くの戦いを繰り広げた勇ましい青年武将でした。
そんな義宣の肖像画、頬当てをしているせいでほとんど顔が分かりません。いかつくて怖そうな感じ・・・
実は家臣たちもあまり顔を見たことがないという逸話も残っているのです。
寝室を三つも作り、どこに寝ているか分からないようにしたり、部屋からでる時は、金具を薙刀の先で外すなどの用心をしていたようなのです。
顔を知られると闇討ちの危険が増すからという理由からでした。
肖像画に片足が書かれていないワケ
さて、片足ポーズの謎ですが、本当は「片足がない」ということではありませんでした。
歴代の佐竹氏の肖像画は秋田藩お抱えの狩野派の絵師たちが書いたものが主で、義宣の肖像画は戦国時代に流行した結跏趺坐(けっかふざ)の変形スタイルを取ってます。
現存するこの肖像画は、明治期に絵師の萩津白銀斎(源勝章)が、佐竹義宣を描いた古画を書き直したものとされます。
時代が下がると、藩主の肖像画は衣冠束帯に佩刀した正装スタイルが主流ですが、戦国末期を駆け抜けた義宣の姿はやはり、この甲冑姿こそが相応しいと思います。
佐竹義宣の晩年は、激しい発作性の腹痛を抱え苦しんだと言います。
参勤交代を終え、秋田に帰ってたらすぐに、生母宝樹院の危篤の知らせが入り、江戸に引き返しました。
しかし、江戸に入る前に宝樹院は死去、途中下野国(栃木県)で生母と無言の対面を果たします。その頃から激しい腹痛が始まり、そのまま闘病生活へと入りました。
現代医学で鑑みると、腸閉塞・胆石・腎石・胃がんなどが考えられます。
また、俗説では梅毒を患い左足が委縮していた、なんていう噂も。
最期は療養中に風邪から肺炎を発症し、寛永十年(1633年)一月二十五日の亥の刻にその激動の64年の生涯を閉じました。
どうやら流行りだったらしい、片足スタイル
他にも、同じような片足だけが書かれたスタイルで有名な肖像画があります。
徳川家康が、武田信玄との三方原の戦いで敗れた折りその悔しさを忘れまいと自ら描かせたという「しかみ図」です。
他にも、戦国大名後北条家の祖となった、北条早雲も片足スタイルでの肖像画が残っています。
この事からも片足を失った姿というよりは当時の流行のスタイルだったという見方が正しそうですね。