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最澄と空海の2人の中にある確執のエピソード!

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平安新仏教の代表ともいえる最澄と空海。804年、同時に中国に渡った二人はまったく違う性質をもつ仏教を学び帰ってきます。

ライバルとも言われる二人の間になぜ確執がうまれてしまったのでしょうか。

平安仏教界のエース・最澄、無名の留学僧・空海

最澄(767~822)は天台宗の開祖で、比叡山延暦寺の開創者です。

延暦寺は788年、平安京とほぼ時期を同じくして誕生しました。桓武天皇が平安京に遷都した理由の一つには、京内にたくさんの寺院が建ち、政治の中枢にまで僧侶が入り込んだ平城京を嫌ったためといわれています。

しかし、仏教を完全に排除することはできません。それは、僧が国を鎮護する役割を果たしていただけでなく、「看病僧」、つまり天皇の魂と体の看取り手だったからです。そこで、桓武天皇が目をつけたのが、平安京の「鬼門」にあたる東北に建つ比叡山延暦寺、そしてその開創者・最澄だったわけです。最澄は平安遷都から3年後の797年には、宮中で読経などの役を務める内供奉に任命されています。そして804年に勅許を得て中国の最新の仏教を学ぶべく留学します。

その船団の一つに乗り、唐に留学しようとしていたのが、真言宗の開祖で当時はまだ無名の僧だった空海(774~835)でした。

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唐で仏教を学ぶ

一緒に日本を出発し、共に唐に渡ったといっても、最澄と空海は上陸した場所もその後目指した場所もまったく違っていました。

804年、肥前国(現在の長崎県)を出発した船団は、途中暴風雨に遭い、4つの船は散り散りに離れてしまいます。そして第三船は九州に、第四船は行方不明になってしまうという惨憺たる航海の中で、奇跡的にも二人の乗っていた第一船と第二船は唐の地に辿り着いたのです。

そして二人はまったく別の場所を目指します。

最澄が目指したのは、船が到着した明州に近い天台山でした。そもそも、受戒も受けたエリート僧だった最澄が南都仏教に別れを告げ、比叡山に上ったのは中国天台宗の経典にあった「人は誰でも平等に仏になれる」という教えに深い感銘を受けたからといわれています。しかし、最澄がそこで学んだ天台宗は当時最新のものではありませんでした。最澄はわずか9ヶ月の滞在の間に天台宗、禅、密教を修め、230部、460巻の典籍を持ち帰りました。

一方、空海が目指したのは唐の都・長安(現在の西安)でした。当時長安では密教が最新の仏教としてもてはやされていました。空海は密教の巨匠・青竜寺の恵果を師事し、密教の秘法のすべてを伝授されました。唐に渡って2年後の806年、新訳のものを多数含む216部、451巻の経典に加え、曼荼羅や法具などをもって帰国しました。

当初は交流があった二人

まったく違う状況で唐に渡り、まったく違う仏教を学んだ二人でしたが、帰国後は友好的な交流を行っていたことが知られています。

書の名人「三筆」として知られた空海の代表作、国宝「風信帖」には「ともに仏教の根本問題を語り合い、仏教活動を盛んにして仏の御恩に報いましょう。お手数でしょうがこちらまで来てください。どうぞよろしくお願いします」という旨を述べ、空海が最澄に敬意を示し、その交流を望んでいることがわかります。

一方、最澄も密教の必要性を感じ、帰国上洛の翌月には、さっそく手紙を送り、経典12部を貸してくれるように頼んでいます。そして、密教の奥義を学ぶべく空海のもとを訪れたりもしました。

二人の間に生まれた確執

そんな二人の交流は長くは続きませんでした。

813年、空海は最澄への『理趣釈教』貸与を断ります。『理趣釈教』は、真言密教の極意を示すと言われる根本経典・理趣経の注釈書です。最澄にとっては9ヶ月の唐での滞在では学びきれなかった密教を学びたいという純粋な向学心、探究心だったたのでしょう。しかし、空海からすればテキストだけ読んで密教の真髄を手にしようとする最澄の考えは受け入れがたかったのかもしれません。

そして、ついに二人の確執を確かなものにしたエピソードが、最澄の弟子・泰範の離反でした。

最澄は密教を学ぶべく、自分の代わりに愛弟子を空海のもとに送り込んでいます。その一人が泰範(778~?)でした。泰範以外は短期の滞在で比叡山に戻ってきましたが、泰範はなかなか戻ってこようとしません。その後、泰範に帰るように手紙を書きましたが、戻りませんでした。その代わりに空海の代筆で「天台宗よりも真言密教のほうが優れている」という手紙が届いたのです。

こうして二人の確執は決定的となりました。泰範は後に空海の十大弟子の一人に数えられています。一説には泰範をめぐる三角関係だったという話もありますが、そうでなくても最澄にとって泰範の離反は大きな痛手だったのでしょう。

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