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後藤又兵衛が黒田長政と不仲になった理由

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「槍の又兵衛」とも呼ばれ、猛将として知られる後藤又兵衛は、軍師として名高い黒田官兵衛から軍略を伝授され、朝鮮出兵や関ケ原の戦いで武功を立てました。しかし、官兵衛の後を継いだ長政との不仲が原因で出奔してしまいます。幼い頃から兄弟のようにして共に育った長政と又兵衛はなぜ不仲になってしまったのでしょうか。

長政の又兵衛に対する信頼

又兵衛と黒田家の縁は深く、黒田家が播磨・御着城の小寺氏に仕え、姫路城主であった頃に始まります。

又兵衛は幼少で父を失ったため、名門・後藤家を守るため、黒田官兵衛が又兵衛を引き取り養育しました。しかし、官兵衛が荒木村重に幽閉された際、伯父藤岡久兵衛が小寺氏とともに信長に反旗を翻し、又兵衛も伯父と行動をともにしたため、黒田家を立退き、一時、戦国秀久に仕えることになりました。

その後、長政は又兵衛の優れた器量を見込んで帰山を許します。父・官兵衛の「謀反人の一族なので、側近くに仕えさせるのは遠慮すべき」という言葉に従い、とりあえず栗山善助の与力として100石を与えましたが、その後も長政は又兵衛を取り立て、家老として遇したそうです。また、関ヶ原の戦勝により、長政が筑前52万石を与えられた時には、又兵衛もその軍功を認められ、1万6000石の高禄と嘉麻郡大隈城を与えられました。この城は六端城の一つに数えられ、国境を守る長政が又兵衛に厚い信頼を置いていたことがわかります。

ところが、それからわずか6年後の慶長11年(1606)、又兵衛は長政と不仲になります。二人の間に何があったのでしょうか。

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不仲の理由

不仲の理由として最も言われているのは、又兵衛が長政と不仲であった豊前・細川氏と親しく交流したことです。

そもそもなぜ長政が細川氏と不仲になったかというと、長政が国替えの際、前領地である豊前からその年の年貢を徴収して持ち去ったからでした。さらに長政は、豊前時代に知っていた優秀な農業経営者をヘッドハンティングして筑前に招くよう画策したりもしていたようです。こうしたことから以来、両家の仲は険悪であり、ゆえに六端城のうち麻底良城を除くすべてが豊前国との国境に構えられているのです。

又兵衛が預かる大隈城も細川領に面していました。本来なら、国境を厳しく監視すべきなのに、それにも関わらず犬猿の仲の細川家と懇意にしている又兵衛を、長政は許せなかったのでしょう。又兵衛もまた、仕えるのに足る主人を選ぶのはあくまで自分だという、戦国乱世の荒々しい気風を引きずっていました。

他にもいくつか二人の不仲を伝えるエピソードが残っています。

朝鮮在陣中、黒田勢が全義館というところに布陣していたとき、夜明け前に突然陣中が大騒ぎになります。一頭の虎が厩に入り込んで馬を噛み殺していたのです。これを見た一人が虎の輿のあたりを斬りましたが、虎はなお猛々しく、後ろ脚の二本立ちで襲いかかろうとしました。しかし、誰も助けようとする人はいません。その時、又兵衛が駆けつけ、虎の肩先から乳の下まで斬り下げました。この又兵衛の豪勇は、一部始終を井楼の上から見ていた長政の不興を買ってしまいます。「一手の大将たる身で、猛獣と立ち会いして犬死にしようというのか」というわけです。又兵衛からしてみれば、虎に負けたかもしれないと言われたことが納得いかなかったことでしょう。

又兵衛は「奉公は一代限り、如水なら主君として仕えられるが、息子の長政になんか仕えたくない」と言ったともいわれており、兄弟のようにして育ったとはいえ、家臣からこのようなことを言われたのでは、長政もさぞ悔しい思いをしたことでしょう。

他にも、長政は又兵衛より八歳年下で、しかも合戦では常に又兵衛に対抗意識をもやしていたが、いつも又兵衛に先を越され、無念に思っていたとか、文禄の役で、長政が敵将と組み打ちになり川へ落ちても格闘していたとき又兵衛はそばで見ているだけで、長政に加勢せず「この程度の敵に討たれるようでは我が主人ではない」と言い、これに長政は遺恨をおぼえたとか、長政が又兵衛の息子・又十郎に命じて猿楽の鼓を演奏させようとしたが、息子はそんなことは賤しい人がすることだとして父・又兵衛にこれを告げ、「老年に至って君辱をうけるか」と激怒して、もう長政に仕えるにも堪忍袋の緒が切れたとか。

二人の不仲エピソードは江戸時代以来多く語られてきたようですが、俗説も多く、やはり細川家と懇意にした又兵衛に長政が怒ったことが最大の原因と見るべきでしょう。

 

黒田家出奔後の又兵衛

出奔した又兵衛は一度は池田輝政に仕えたものの、旧主・長政の恨みは大きく、輝政に対して又兵衛の不義を訴えています。輝政の立場を慮った又兵衛は池田家を致仕しましたが、その後長政の「奉公構」の回状が諸大名にまわったために、又兵衛はどの大名家からも召し抱えられず、牢人のまま大坂に居着くことになりました。「奉公構」とは、武士や武家奉公人が何らかの罪を犯したとき、以後、武家での奉公が禁じられる処罰です。

こうして又兵衛は追い詰められ、武士であろうとする限り、孤立した豊臣家に身を投じるしか方法がなくなったと思われます。

大野治長を通じ、又兵衛は牢人大将の一人として豊臣家に迎えられました。開戦前の閲兵式では総指揮を任され、寄せ集めの豊臣軍を指揮して軍事演習を見事に成功させ、軍神として信仰される「摩利支天の再来」と絶賛されています。家康も又兵衛を強く警戒していたといわれており、播州一国を条件に調略を画策しますが、又兵衛はこれを丁重に断り、大阪城内での猜疑の目にさらされながらも豊臣家のために最後まで奮闘しました。

大阪夏の陣の慶長20年(1615)、又兵衛は3000人足らずの寡勢で敵陣に向い、伊達政宗の鉄砲隊に腰の上あたりを射抜かれると、「口惜しき次第。無念なり」と歯噛みして、近習・金方平右衛門に介錯させて自刃したと伝えられています。享年56。

又兵衛の叔父・後藤助右衛門は又兵衛の戦いぶりを次のように伝えています。

又兵衛殿も六日に御討死なされ候、然れども、御手柄源平以来有るまじきと申す取沙汰にて御座候

この戦いぶりはきっと長政の耳にも届いたはずで、又兵衛の実力を誰よりも理解し、兄弟のようにして育った長政にとって又兵衛の死はどのように映ったのでしょうか。

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