豊臣秀吉の墨股一夜城築城伝説の信憑性はいかに!
1566年、秀吉を一躍有名にした墨俣の築城が行われました。
これは史実で、後にこの城は「一夜城」と呼ばれるのです。
でも城が一夜で?本当にそんなこと可能なのでしょうか。
困難だった墨俣の築城
1566年当時、信長は美濃を攻略すべく、美濃と尾張の国境に位置する墨俣あたりに砦を築こうと考えていました。
しかし、墨俣という土地での築城は困難を極めます。
理由は二つです。
一つはその場所が川の合流地点であったことです。
現在も大きな川が多く流れる墨俣地区ですが、当時、木曽川・長良川・揖斐川は現在よりも接近し、ほとんど合流するような形で流れていました。
しかも、低湿地だったことを考えると、少しでも雨が降り川が増水すると浸水するような場所だったと想像されます。
二つ目はその場所が敵国・美濃に一歩踏み込んだ土地であったことです。
自分の国に敵国の城が出来上がっていくのをただただ見ているわけもなく、美濃の斎藤氏は墨俣での築城を妨害すべく兵を出しています。
信長の命を受けた佐久間信盛や柴田勝家らの築城工事も、斎藤方の攻撃に敗北し、撤退を余儀なくされていました。
そのあとを受けて築城を命じられたのが木下藤吉郎こと秀吉だったのです。
成功のカギは秀吉の人脈!
佐久間や柴田が兵3000、人夫5000をもって臨んだこの築城に秀吉は、近くの郷から集めた土豪など1000人余り、さらに蜂須賀小六・稲田大炊助・青山新七・加治田隼人ら美濃国境の野武士らと共に挑みました。
その数総勢2410人。うち信長から与えられたのは足軽鉄砲隊の75人のみ。残り2300人超は秀吉自身の人脈で集めた人数でした。
その中には材木の伐り出しを専門とする山方衆や木曽川での交通・運輸を専門とする船頭衆、さらに尾張各地から集められた大工棟梁衆など多くの技術者が含まれていたといわれています。
さらに、蜂須賀ら野武士も墨俣城築城においてその能力をいかんなく発揮しています。
それは間者としての能力です。間者というのは忍びの者とも言われ、敵が他の動きを把握したり、またはかく乱したりする役目を果たします。
秀吉はかなりの人数の野武士を間者として斎藤氏の居城である美濃稲葉山城下へ潜伏させていました。
こうした技術者集団を集め、まとめ上げることのできる秀吉の人脈が成功のカギの一つと考えられます。
短期築城を可能にした築城方法
秀吉はこうした技術者らを指揮し、二カ月以上かけて周到な準備をかさねました。
そしてすぐに組み立てられるように加工した材料を一気に墨俣へ運び、分割作業でわずか数日で砦を築き上げてしまったのです。
これが世に言う「一夜城」の築城方法です。
確かに敵地・美濃の人々から見れば、まさにあっという間の築城だったことでしょう。
しかし、実際には2か月以上と数日かかっていたのです。
それにしても織田家重臣らの失敗した墨俣城築城を成功させた秀吉の功績は大きく、その後秀吉は墨俣城主となり、信長は早速翌年に美濃奪取に成功しています。
その姿は?
現在墨俣城跡の北西には一夜城跡として墨俣一夜城歴史資料館が建てられています。
しかし、現在のこの天守閣は同じく岐阜にあった大垣城を模したものとされています。
実際に築城された墨俣城は簡単な建築や柵で構成されたものだったというのが史実のようです。
「墨俣一夜城」の信憑性は?
このように墨俣城が「一夜」で築城されたというのは真実ではないようです。が砦はあったというのが史実ですから、墨俣城自体がなかったと考えるのも間違いのようです。
また、墨俣城築城の手段や方法について記された『前野家文書』は史料として上質ではないといわれていますが、それでもそこに記されたことを見れば決して不可能ではなく、実現可能と思われるものなのです。
私たちのよく知る天守閣のような建物がしかも一夜で築城できるはずがない、というところから「幻の城」とされることもあるようですが、そんな信じられないことをやってのけるところに秀吉の出世の理由があるのだと思います。