小早川秀秋の死因の真相は? 呪い殺されたのは本当?
関ヶ原の戦いから2年後、21歳の若さで亡くなった小早川秀秋。その死にまつわるオカルト的な俗説も囁かれています。
小早川秀秋の謎多き死因に迫ってみたいと思います。
大谷吉継に呪い殺された?
俗説・逸話として囁かれていることのようですが、「小早川秀秋は、大谷吉継に呪い殺された」という話があります。
それは関ヶ原の戦いの時に、西軍を裏切った小早川軍によって大谷軍が壊滅し、大谷吉継が自害をする際に、小早川秀秋の陣へ向かって
人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん。
と言って切腹したとされているからです。
この祟りによって秀秋は狂って死亡したと言われているのです。まさにその2年後亡くなったことから、信憑性を帯びてしまったのかもしれませんね。
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関ヶ原の戦い以降の秀秋
関ヶ原の戦いの後、備前と美作国と備中国東半にまたがる、播磨国の飛び地数郡以外の旧宇喜多秀家領の岡山藩55万石に加増・移封された秀秋は、領内を家臣に知行割り当てたり、寺社寄進領の安堵といった施策を行いました。
その一方で、側近を拡充したため旧家臣団との軋轢が生じたようで、長年家老を勤めた重臣・稲葉正成が出奔しており、小早川家内部は落ち着かない状態でした。
まだ若い秀秋にとって、新しい領地を治めることや家臣の統率など、この加増・移封後は気苦労も多かったのではないかと思われます。
その最期
秀秋の死因は諸説あげられているようですが、最近の研究では病歴などを総合的に判断すると、アルコール依存症による内蔵疾患が原因ではないかとされています。もともと酒を覚えた頃から、深酒をして養母の高台院を悩ませていたということもあり、この死因を裏付けるものではないかと思われます。
結果的にアルコール依存症から死に至ったということなので、大谷吉継の祟りで精神的におかしくなり酒に溺れていったという見方もできなくはないですね。
秀秋の死後、小早川家は後継がいないという理由で、改易処分になりました。これは、徳川政権初の無嗣改易でした。
小早川家の家臣たちは、改易後「関ヶ原の戦いでの裏切りを責められ」仕官先を見つけるのに苦労したとされています。

By: Kanko*
まとめ
秀秋の短い生涯を見ると、豊臣家の後継ナンバー2として将来を期待された時期もあったのに、秀頼の誕生で豊臣家を追われるように養子に出され、頂点から奈落に突き落とされてしまいます。
その後も豊臣家の出身なのに関ヶ原の戦いで東軍に寝返ってしまったために、東軍の勝利に大いに貢献した功労者でありながら、武士としては裏切り者扱いされた秀秋。
秀秋の死には、悲哀を感じずにはいられませんね。