徳川秀忠と江の夫婦仲は良かったのか?
大河ドラマにも題材として扱われたこの夫婦ですが、大河ドラマはあくまで「ドラマ」であって、史実とは違う部分も多々あるようです。
では、実際の江はどういう人だったのでしょう?
夫の秀忠とはどのような関係だったのでしょう?
真相に迫ってみます。
経緯
そもそも、なぜこの二人が結婚することになったのでしょう?
それぞれに当初は結婚するはずはなかったのですが。
江
まず江ですが、一般には江、江与として知られ、彼女は浅井長政とお市(織田信長のい妹)の3女です。
一般的に「浅井三姉妹」として知られます。長女は茶々、二女は初、三女は江。母のお市に似て、美人だったようです。
江は最初に佐治一成と結婚しますが、秀吉によって離縁させられています。そして次に、秀吉の甥である豊臣秀勝と結婚し、完子という娘をもうけますが、秀勝が没したことで死別します。
3度目に徳川秀忠と結婚することになったのです。
徳川秀忠
言わずと知れた、江戸幕府2代将軍です。彼は当初織田信雄の娘である”小姫”と結婚する予定でいたのですが、小姫の死去により結婚は流れてしまします。
そんなときに数奇な運命を辿った江と結婚することになるのです。
夫婦仲
秀忠は恐妻家だったと言われますが、本当でしょうか?
江は秀忠より6つ年上ですし、2度の落城、2度の離婚と経験してきた女性です。
気丈でもあったようですが、それは人生経験からくる気丈さかもしれません。
また江は「崇源院」としても知られるのですが、彼女は大奥にて春日の局と対立したともされますが、それは後世の創作ではないかとの研究もあります。
秀忠はただ真面目で、大人しい人物でした。そんな風ですから、気丈な江に少し圧倒されていたかもしれません。
江に頭があがらず、側室も持てなかったと言われている秀忠ですが、側室を持たなかったのは事実ですが、本当に江に遠慮してかは分かりません。
夫婦仲が良いとも悪いとも言えず、そういった資料も残されていませんから。
江の死後も秀忠は側室を持っていませんし、ただ単に女性に対して淡泊だっただけかもしれません。
つまるところ、夫婦仲が良かったとも悪かったとも、恐妻家だったとも言い難いといったところです。
現在の尺度とは違いますし、何より政略結婚ですしね。
他の武将
他の武将にも、妻が年上である、恐妻家であるとされている人は数人いるようです。
徳川家康と築山殿
築山殿が10歳年上です。彼女は今川義元の娘なので、家康も大切に扱っていたようですが、今川の死後はぞんざいに扱っていたとか?
直江兼継とお船
お船が3つ年上ですが、夫をよく支えて夫婦仲は非常に良かったとされます。
福島正則と冒泉院
晶泉院の生年が不明なので、年上だったかは分かりませんが、正則は恐妻家でした。
嫉妬にかられた妻に、薙刀で斬りつけられたというエピソードがあります。
当時の夫婦仲とは
時代が時代ですし、現代の感覚でいう結婚とも違ったのでしょうね。
何せ、結婚の場で初めて顔を合わせることがほとんどだったでしょうし、誰かの命令で結婚させられますものね。
そんな結婚ですから、夫婦仲が良いも悪いもあまりなかったかと思います。
結婚して子供を産んで、家を大きくして…それで良かったのかも知れません。
そうなると、当時の結婚で夫婦仲が良かったとされている武将たちは、よほど相性が良かったのでしょうね。