織田家の家臣の中でも筆頭家老という立場にあった柴田勝家。
そんな彼は最初は織田信長の同母弟である織田信行を立て、織田信長を排除しようとしますが、後に信長の配下となり、数々の戦場で活躍しました。
どうして、柴田勝家は信行派から信長派になったのでしょうか。
大うつけ信長と礼儀正しい信行
織田信長は幼少期の頃から奇妙な行動が多く、「尾張の大うつけ(馬鹿者)」と呼ばれていました。
父:信秀の葬儀の際にも、葬儀には似つかわしくない格好で現れ、焼香の抹香を父の位牌に向かって投げつけたと「信長公記」に書かれています。
そんなうつけ者の信長に対して元々家臣はいい感情を抱いていませんでした。
それに対して、信長の同母弟である信行(信勝)は父の葬儀の際も折り目正しく正装をして礼儀正しく振舞える人間でした。
二人の母である土田御前も家臣もみなこの信行の味方をし、信行に家督を継がせようと画策していました。
親族のつながりを大切にした信行
1555年、信長・信行の同母弟である織田秀孝が、叔父である守山城主:織田信次の家臣:洲賀才蔵によって殺害されるという事件がありました。
これは供回りもつけずに単騎通行していた秀孝が、信次の前を通り過ぎようとし、領主の前で下馬しない不届き者と思われて射殺されたのです。
これに信行は激怒し、守山城下を焼き払うという行動に出ましたが、信長は「単騎行動していた秀孝にも問題がある」としてその罪を赦しています。
こうした行動の違いから信行の方が親族のつながりを尊重しているとして、家臣たちはさらに信行に肩入れするようになります。
信長と信行の対立
弟:信行も自らが織田家の家督を継ぐものだという自負を持ち、代々の当主が名乗ってきた弾正忠を名乗り、信長に対抗します。
そして1556年、信長の岳父であり、最大の支援者であった斎藤道三が息子である斎藤義龍との戦(長良川の戦い)で戦死したのを機に、信行は柴田勝家・林通具などの家臣を味方につけて、信長の直轄地である篠木三郷を横領しようと挙兵しました。
しかし、稲生の戦いで倍以上の兵力があったものの柴田勝家は敗走、林通具は討死という結果になり、敗れた信行は末森城に籠城しました。
母:土田御前の願い
この戦の後、信長・信行の母である土田御前のとりなしにより、信行は柴田勝家らとともに赦免されました。
この時、柴田勝家は剃髪と自害を信長に申し入れますが、信長はそれをさせませんでした。
それ以降、柴田勝家は信長を「ただのうつけ者ではない」と思い直します。
また新参の家臣を重用したり、再三信長を打ち取ろうと計画する信行を見限って、信長の味方をするようになってきました。
柴田勝家の裏切りによって殺された信行
信行が再三の信長追討を計画した際、柴田勝家は信長に密告しました。
それを聞いた信長は仮病を装いました。
信長の病気の真偽を、勝家に聞いた信行は「信長殿を騙して譲り状を書かせてしまえば、織田家はあなたの物です」という勝家の言葉に騙されます。
そして、見舞いと称して信長の下にやってきた信行は、信長の家臣の河尻秀隆・池田恒興らに殺害されてしまいました。
信長に重用された勝家
信行の死後、勝家は正式に信長の家臣と認められましたが、最初のうちはさすがに戦線には加えてもらえませんでした。
しかし、勝家は1568年(永禄11年)の上洛作戦より信長に用いられるようになり、畿内平定戦では常に先鋒の武将として起用されて、信長の重臣として武功をあげました。
その後、数多くの武功を上げた勝家は織田家の筆頭家老となります。
元々勝家は勇猛果敢な性格で、道理で信長をも言い負かすほどの頭の良さも持ち合わせていました。
信長はどんな者でも有能であれば重用するという考えの持ち主でしたので、勝家が重用されたのもその有能さを信長が見抜いたからでしょう。