織田信長に仕えた黒人 弥助とはどんな人物だったのか!?
キリスト教の布教を認めたり、火縄銃を用いた戦法を考案したりと革新的なことを進んで取り入れた尾張出身の戦国武将・織田信長。
そんな彼には「弥助」という名の黒人の家臣がいたというのです。
弥助とはどんな人物だったのでしょうか。
弥助とは
弥助は当時ポルトガル領だったアフリカのモザンビークの出身といわれています。
そんな日本から遠く離れた地で生まれた弥助が、信長と初めて出会ったのは天正9年(1581)のことでした。その時弥助は26~27歳。
弥助が奴隷として仕えていたイエズス会の宣教師・ヴァリニャーニが信長と謁見した際につきしたがっていたことがきっかけでした。
ちなみにこの「弥助」という名前は、モザンビークでも人気(?)の名前「ヤスフェ」が由来といわれています。確かに「ヤスフェ」なら「やすけ」に聞こえないこともないような。
その体はますます黒く
当時南蛮人が入ってきていた日本でも黒人というのは大変珍しく、京都では一目見ようと見物人が押し掛け、重傷者が出たほどだったそうです。
信長も弥助を初めて見たときには肌に墨を塗っているのではないかと疑い、着物を脱がせて体を洗わせたそうです。しかし、その体は白くなるどころかますます黒く光ったといいます。
「黒」といえば、漫画『へうげもの』で光秀が信長の居城・安土城を信長暗殺後、黒から白に塗り替えたというエピソードが思い起こされます。
「黒」を至高と考えていた茶人・千利休を信長は茶頭として雇っており、少なからず信長も利休の影響を受けていたはずです。
肌が黒く光る弥助に「美」を感じ取ったのかもしれません。
信長は弥助を大変気に入り、ヴァリニャーニに交渉して譲ってもらいました。
信長の家臣へ
物のやり取りのように表現されるところが、当時黒人の人たちがどのように扱われていたかを物語っていますが、信長は弥助を奴隷としては扱いませんでした。
信長は弥助に武士の身分を与え、従軍もし、私邸も腰刀も与えられ、ゆくゆくは城主にしようと考えていたと伝えられています。
時には道具持ちをしていたともいわれていて、お気に入りとして信長の側に仕えていたことがわかります。
モザンビークでは”黒人が奴隷として扱われていた時代でも日本の侍は差別することなく家臣として重要な任につかせた”美談として語られているそうです。
才能のある者を身分を問わず登用する信長の姿勢は、人種さえ超えてしまうものだったのです。
本能寺の変の後、弥助は…
天正10年(1582)の本能寺の変の時にも弥助は信長と共に本能寺に宿泊していました。信長が死ぬと、二条御所にて戦った末捕縛されます。
弥助の処分を問われた光秀は「動物で何も知らず日本人でもない」と、南蛮寺に送ってしまいました。
その後の消息は分かっていません。
というのが史実なのですが、弥助には違う説があります。
それは、信長が自害した後、その首をひそかに故郷である岐阜に運び出したというものです。
こうした説が出てくるのも、自害したとされる信長の遺体が見つからなかったことが原因です。
しかも、愛知県には信長のデスマスクとして語り継がれているものがあるとか。
真偽のほどはわかりませんが、信長の側に謎の黒人男性という状況が、一層信長の謎を深めているのかもしれませんね。