織田信長の性格 長所はどこ?
戦国武将としても、天下統一を成し遂げた人物としても有名な織田信長。
彼はどのようにして天下統一を成し遂げたのか、それには彼の性格がどう影響しているのか考えていきます。
天下統一
「戦国時代の武将は皆天下統一を夢みていた」――と思っている人が多いのではないでしょうか。
ですが、これは少し違うようです。天下統一を目指していたのはごく一部の武将…今川義元や武田信玄、織田信長しかいなかったのではないかとされています。
下手をすると、信長の時代に天下統一を目指したのは信長だけ、ということになってしまいます。
そうですと、戦国時代のイメージも変わってきますよね。
上洛を目指す武将があちこちで領土を広げるべく争っていた…のとは違うようです。
他の武将は自分の領地を平定できれば良い…くらいの考えだったのでしょう。応仁の乱によって、日本中戦だらけでしたから、それが精いっぱいだったのかもしれません。
寛大
『信長公記』には、次のようなエピソードがあります。
美濃と近江の国近くの山中に「山中の猿」と呼ばれる、身体に障がいを持った人が物乞いをしていました。
信長はそこを通るたびに彼を哀れに思っていたのですが、上洛の途中にこの山に住む人々を呼び集めて木綿を猿に与え、「これを売ってお金を得るように。
売ったお金で猿に家を建て、また今後猿が飢えないように面倒を見てくれれば自分は大変に嬉しい」と言い、その言葉と心遣いに山中の猿本人はもとより、山の人々も感動で涙しました。
自分にとって何の利益にもならないだろう人を覚えていて、なおかつ自立できるように施すなど、なかなか出来ないことですよね。このように信長は、寛大な一面があったようです。
自ら行う
重要なことは、自分で行っていました。
- 戦いでは自ら先頭に立って戦うことがありました。当時、大将は陣の中にいて戦いそのものには参戦しませんでしたので、異例なことです。
- 客をもてなすための食器などを、自ら運びました。
- 工事の音頭を取るときなど、民衆の前に姿を現しまし。信長は平素より民衆とよく交流し、身分に分け隔てなく付き合っていました。ゆえに、民衆から慕われる大名であったようです。
大事なことは自ら行うということは、自分の姿勢を表すことでしょう。要所要所に出ることで、上手く自己アピールしていたのですね。
過ちを認める
大河ドラマであったかもしれない話しですが(有名なエピソードです)
信長の軍師である黒田官兵衛が荒木村重の説得に向かったのですが、なかなか帰還しません。
これを裏切りだと早計した信長は、黒田官兵衛に対して処刑命令を出します。
しかし、後に黒田官兵衛は牢に捕らわれていたのだと判明しました。これを知った信長は「黒田に合わせる顔がない」と、深く反省したということです。
自らの過ちにたいしては、潔く認めて反省出来る人物だったようです。
言い訳をして他人に責任転嫁をしないあたり、リーダーとしての素質があったのでしょうね。
その他の要素
何も人柄だけで天下統一という偉業を成し遂げたのではありません。
当時の武将の情勢や戦でのどんでん返し、また鉄砲を戦に持ち込むと言う発想。
その他諸々の要素が絡まりあって、天下を統一出来たのです。
色々な要素があってこそですが、彼の人柄というものがなければ、また天下統一は成せなかったはずです。
どちらが欠けても現在の「織田信長」は有り得ないのではないでしょうか。