友情の証!? 黒田長政の兜に込められた意味とは
黒田長政といえば、恵まれた血筋と武将としての実力、時世を読む目に定評のある人気の戦国武将ですが、変わった形の兜でも有名です。
今回は、黒田長政所用の二つの兜、『大水牛桃形兜』と『一の谷型兜』のエピソードをご紹介していきたいと思います。
戦場に映える!伸びやかな二本の角 『大水牛桃形兜』
筑前福岡藩、黒田長政は、豊臣秀吉の軍師として有名な黒田官兵衛の嫡男として、永禄11年(1566年)に播磨の国姫路で生まれました。
父:官兵衛の意向に沿い、幼少時代を豊臣秀吉の元で人質として過ごしています。
長じてからは秀吉軍の武将として賤ヶ岳の戦い、九州地方征伐、朝鮮出兵など、多くの戦いで活躍しました。
朝鮮での戦い、文禄の役では、朝鮮側の敵将と川の中で組み合いになり、この角が水面を見え隠れするほどの激しい戦いを制して敵を打ち取ったとの逸話もあります。
このように、長政所用の『大水牛桃形兜』は、その名の通り水牛の角を模した兜です。
元はと言えば、浅井長政に仕えていた浦野若狭守の所持品だったと言われています。
熱心な八幡信仰の武将であった浦野がある日、武功を祈願している最中に夢を見て、目が覚めるとこの大水牛の兜が忽然とその姿を現していたという不思議なエピソードがあります。
浅井家が没落した後、黒田家に仕えた浦野は、この兜の複製を作り献上。以来これを身に着けると戦に勝てる「縁起の良い兜」と黒田長政に愛用され、黒田家代々の宝として大切にされました。
秀吉亡き後、家康に従った黒田長政は、関ヶ原の戦での功を評価され、筑前国福岡藩二十五万石に転封されました。
以来、福岡では明治維新までの長い間黒田家の統治が続きました。
黒田長政は福岡藩の租として「月三回は藩主と藩士が腹を割って話す場を設けること」を遺言として残しましたが、その会合の場には黒田家のシンボルとも言えるその大水牛の兜が飾ってあったと言われています。
仲直りの証?『一の谷形兜』
秀吉の朝鮮出兵、文禄・慶長の役で黒田長政は多くの功績を残しましたが、石田三成や小西行長ら、不仲になってしまった武将もいました。
福島正則もその一人でしたが、後に和解し、その仲直りの証として、黒田長政所用の「大水牛桃形兜」と、福島正則所用の「一の谷形兜」とを交換しました。
関ヶ原での戦場ではお互い、交換した兜を着用したと伝えられ、現在も残る馬上での軍装姿を描いた肖像画にも、一の谷形兜を付けている様子が見えます。
この一の谷形兜は、非常に変わった形をしています。
遠目で見ると、正面からも背面からも長方形。横から見ると大きな曲面が特徴的です。銀箔が光を反射し、奇抜な印象を与えます。
これは、有名な鎌倉時代のヒーロー、源義経の『鵯越(ひよどりごえ)』の断崖をモチーフに作られたものだと言います。
ずいぶんと重そうに見えますが、張り懸けという製法で軽く仕上げられているそうで、着用の負担は大きくないとのこと。
大水牛形と共に代々、少しずつ形や性能を変え、黒田家で長く愛用された兜となっています。
戦火を潜り抜けて
黒田長政所用の兜をはじめ、黒田家に伝わる貴重な品の数々は、現在そのほとんどが「福岡市博物館」で見ることができます。
明治政府の樹立の際、廃藩置県が行われ、各地の旧藩主たちは新しく名を変えた首都東京に移住することになりました。福岡藩黒田家も例外ではなく、代々伝わる多くの什器とともに東京へ移動しました。
しかし、昭和20年の空襲により多くの蔵が焼けてしまい、焼け残ったのはたった一つの蔵だけだったと言います。
現在、私たちが目にすることができるのは、その焼け残った蔵に所蔵されていた品々です。
昭和53年、黒田家により福岡市に寄贈され、博物館で大切に保管されています。
そのおかげで、今もで私たちは想像することができます。
黒漆に金箔押、スラリと動物的な仕立ての大きな角が異国の戦場をかけめぐるさまを。
猛将義経が駆け下りた断崖を模したというまばゆい銀板が、さっそうと衆目を浚うさまを。