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高野山で空海は即身仏になった!? 本当はまだ生き続けている!

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空海といえば平安時代の僧として、教科書にも載っている有名な人物です。

遣唐使の船に乗り入唐するまでは、なにしろ一修行僧ですので、いまだその経歴は謎に包まれています。

梵語を操りあらゆる経典を読み、20年の留学期間をわずか2年で終えた空海は、帰国後は精力的に密教の普及に努め、真言宗の開祖として知られています。

そんな空海、実はまだ生きているということ、ご存知ですか?

生きたまま仏となれる教え 密教

実在したお釈迦さまや、阿弥陀、薬師などの如来が人々を救うとされる一般的な仏教が「顕教」と呼ばれるのに対し、空海が唐から持ち帰った大日如来の元で即身成仏できるとされる教えは「密教」と言われます。

顕教では、成仏するまで長い時間をかけなければいけないとされますが、密教では真言陀羅尼、マンダラ、護摩、瞑想などのアイテムを通じて生きたまま仏になる修行のあり方が示されます。

厳しい修行の末たどり着いた一つの結果として、また仏に至る過程として、『入定』という儀式があります。

『定』とは、瞑想、入定は瞑想修行に入ることを意味します。

晩年の空海は病を得、弟子たちに入定の日を定めて伝えました。

空海が入定したのは、承和2年3月21日(835年4月22日)のこと。以来、衆生を救わんといまだに禅定を続けていると信じられています。

密教の特徴は「即身成仏」ですが、一般に言われる即身仏(ミイラ)とは概念が少し違うので、注意が必要なところです。

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1200年もの間、食事が届けられ続けている?

空海が入定してから、弟子たちは高野山の奥の院に霊廟を建て、大師の修行を支えるために毎日2度の食事と衣服を届けています。

食事を運ぶのは、奥の院の維那(ゆいな)と呼ばれる支侍僧で、毎日5時30分と10時30分に、温かいお汁とご飯、一品のおかずを届けています。

霊廟は維那以外立ち入ることは許されず、中の構造や、空海の現在はどのような様子なのか、いっさい知られていません。

空海への食事は、肉や魚こそ使わないものの、担当の僧侶たちが知恵を絞って毎日の献立を考え工夫して作っています。見立てではなく実際に調理していて、長い年月を経ても形骸化しないのは本当にすごいこと。

1日2回食事を運ぶというこの儀が、1200年もの長きにわたり欠かさず続けられているということに、空海信仰の深さを感じずにはいられません。

入定に纏わる逸話と伝説

空海が入定したことについての史料は、「入定してから四十九日経っても、容姿は変わらず髪や髭が伸び続けていた」と記載された、『金剛峯寺建立修行縁起』があります。こちらは空海の入定後100年以上経ってから(康保五年-968年)、仁海という僧が著したものです。

また、『今昔物語』では、東寺長者の観賢が霊廟を開いてみたと書かれています。石室と厨子で二重に守られて座っていた空海は、一尺あまり髪の毛が伸び、数珠や衣服が綻びていたといいます。観賢はその空海の伸びきった髪を剃り、衣類と数珠の縫い直し、再び封印しました。

もう一つ、空海は、入定の後も全国を行脚し修行を続けているとされる伝説もあります。毎年3月21日に衣をあらためる儀式があるのですが、その時に空海の纏う衣の裾に土がついていることがその証拠となっているそうです。

空海は生きている!?

常識的というか普通に考えて1200年もの前の人が生きているはずはありませんよね。

それでも、空海は生きている、生きて修行を積んでいらっしゃる、そう信仰している人々は確かにいます。

真言僧でなくても、また盲目的に信じるというのとも違う、たとえばご先祖を敬うような懐かしむような気持ちで、手を合わせる人々がたくさんいるのです。

全てにおいて豊かになった現代でも、「生きている空海」が、救えるものがまだこの世にはあるということにほかなりません。

北村美佳子

投稿者プロフィール

いにしえに想いを馳せて、一人涙し、一人ニヤつく。そんな日本史をこよなく愛するライター。重度の活字中毒でもある。愛読書は梅原猛氏の本。
日本史が好き過ぎて、記事を書きながら悶絶することも多々あるけれど、いくつになっても好きなものは好きだと言える女でいたい、そう願って邁進中であります。

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