徳川家定は脳性麻痺だった?
江戸幕府第13代将軍・徳川家定。
12代・家慶の4男でありながら、兄弟のほとんどが若くして亡くなったため、将軍職を継ぐことになった人物で、篤姫を正室としたことでも知られています。
家定自身も幼少のころから病弱だったそうですが、一説には脳性麻痺だったといわれています。
その真相を探っていきます。
脳性麻痺とは
おなかにいるときから生後4週までに受けた脳の損傷により、体や手足に運動障害がでるのが脳性麻痺です。知的障害や、てんかんを伴うこともあります。
重度であればあるほど、幼少期にその症状がでてきて、座ることもできない人もいるそうです。
筋肉に力が入りやすくなる痙直型、意思とは関係なく手足が動く不随意型、バランスが悪くふらふら歩く失調型などがあり、人によって症状もさまざまです。
家定が脳性麻痺とされるエピソード
家定が脳性麻痺であったといわれるエピソードが、アメリカ公使ハリスの日記に残されています。
1857年、ハリスを江戸城に迎え、家定がアメリカ大統領からのメッセージに対し返事しようとしたときのこと。家定は短い沈黙ののち、頭を左肩をこえて後ろへぐいっと反らし、同時に足を踏み鳴らしたというのです。このことは脳性麻痺の症状のひとつ不随意型であることが想像されます。
また、ときどき顔が引きつったり、目や口がけいれんすることもあったとされており、国立銀行の設立などの功績がある渋沢栄一は家定の様子を「一見笑うべき奇態」と表現しています。
癇癪持ちだったとも言われていますが、それはこうした顔面のけいれんが原因と考えられます。
また、15代将軍・慶喜の実父で水戸藩藩主の徳川斉昭は『忠成公手禄』という随筆の中で、家定がお伺いに上がる家臣をうるさがるのは何事もよくわかっていないからだという趣旨の記述をし、家定に知的障害があったような言及をしています。
家定は「暗愚」か?
知的障害があったともされる家定は「暗愚」として描かれてきました。アヒルを追いかけまわして遊んでいたというエピソードは明治期の朝野新聞の記事から派生して作られたものであるようですが、こうした話が早い段階で語られてきたのです。
しかし、最近では家定は「暗愚」ではなかったという意見があります。
ハリスとの引見の際にも、家定は言葉を発する前でこそ不随意運動が見られましたが、その後はあらかじめ用意されていた「遙か遠き国から使節を託して寄せられた書簡に接して、欣快である。同時に使節の口上にも、満足を覚ゆる。永遠の交誼を望む。」という言葉を間違えることなく述べています。
また、斉昭は家定が政治について何も分かっていないという趣旨の記述をしていますが、気の知れた家定の近くの人とは議論することもあり、将軍として自らの意見を持ち、内憂外患の当時の政治状況に心を砕いていたとされています。
運動障害や軽度の知的障害、さらに幼少期の疱瘡により顔にあざがあったことも重なり、家定が周囲の目を気にしていたことは想像に難くないですが、決して「暗愚」と呼ばれるほど将軍職に無関心ではなかったのです。