豊臣秀吉の性格をほととぎすを用いて簡単に紹介
俗に三英傑と呼ばれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。彼らは不如帰に託された詩が有名です。
- 織田信長「鳴かぬなら 殺してしまえ 不如帰」
- 豊臣秀吉「鳴かぬなら 鳴かせて見せよう 不如帰」
- 徳川家康「鳴かぬなら 鳴くまで待とう 不如帰」
彼らは本当にこのような性格だったのでしょうか?ここでは、豊臣秀吉の性格に迫ってみます。
鳴かぬなら 鳴かせて見せよう ほととぎす
秀吉は「努力家」と言うか「策略家」のイメージが強くあります。
それには『織田信長の草履取りをしていた時分、信長の草履を懐に入れて温めており、それを知った信長から目をかけられた』というエピソードが有名ですね。
主君の草履を懐で温めるとは、一歩間違えば「身の程知らずが!」と怒られそうなものですが…秀吉のことですから、上手にやったのでしょうね。
次に「墨俣の一夜城」が上げられます。
敵陣の目の前にある墨俣に城を築けという、信長からの命令がありましたが、家臣は皆「無理だ」と言います。
ところが、秀吉は材料を川へ浮かべ、水路を利用して一夜にして墨俣に城を築きました。
ですが、このエピソードは未だ謎として議論されています。
まず1夜にして築城するのは根本的に無理なことですから、気付かれないように短期間で築城し、出来てから「あんなところに城が出来てる!」と思われた…という方が納得でしょうね。
鳴かせてみせた ほととぎす
織田信長配下であったとき、秀吉は数々の活躍を見せています。
1566年 観音寺城の戦い
夜襲を提案、実行します。これは3尺の松明を数百本用意し、山の中腹まで50か所に配置するものです。
これに一斉に火をつけ、大軍勢が一挙に攻めてきたかのように演出しながら、不意打ちをかけて勝利をおさめました。
1573年 小谷城の戦い
浅井長政と織田信長の戦いですね。この戦いによって、お市の方と浅井3姉妹は織田に戻ることになります。
秀吉は3千の兵を率いて、夜半に清水谷の斜面から京極丸を攻め落としました。
これらの活躍は本当に秀吉の発案によるものか少々疑問です。
と言うのも、当時はすでに信長より竹中半兵衛という優秀な軍師を付けてもらっていましたので、手柄は竹中半兵衛の策の影響もあったのではないかなと思います。
もちろん、それを採用すると決めた秀吉にも功はあるのでしょうが。
全部が全部、秀吉の手柄とは思いにくいのです。
迅速な対応
1582年、本能寺の変が起きて信長は死去します。その時備中高松城を水攻めにしていた秀吉は、事件を知ってすぐに高松城主・清水宗治の切腹を条件に毛利輝元と講和します。
そして、すぐに京都へ軍を返し(中国大返し)、山崎の戦いにて明智光秀に勝利します。
ですが、もともと光秀は秀吉の救援に向かうはずでしたので…本能寺の変の切っ掛けを作ったのは秀吉のせいではないかという気もします。
実際、秀吉が本能寺の変の黒幕だという説もありますしね。
短歌
織田信長の配下であったときに、策士のような活躍を見せた豊臣秀吉ですが、その後はあまり「策士」と言えるような活躍はないように見受けられます。
最後に、三英傑を表現した短歌を紹介しましょう。
「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに 食うが徳川」
…徳川家康も苦労して天下を取ったのですけどね…「座りしままに」とは、とんだ表現をされてしまったものです。