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伊達政宗が片目を眼帯で覆うようになった原因とは

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伊達政宗というと片目を眼帯で隠していて…という容姿を想像するかと思います。

銅像もそうですし、ゲームの設定画などもそうなってますよね。では、彼はなぜあのような姿なのでしょう?

眼帯をしている理由

ずばり、片目がないからです。当時は義眼なんて代物は存在しなかったでしょうし、なんらかの理由で身体が欠損した場合、それをどうにかして補う方法が考えられました。

現在で眼帯と言うと、医療機関で処方されるガ―ゼなどから成る、眼球を保護するためのものですよね。

戦国時代あたりの医療技術等は分かりませんが、政宗の眼帯はどういう構造だったのでしょうか?

気になります。武将ですし、きちんと手当てされていたと思いたいのですが。

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片目になった原因

片目になったのは、幼いころ疱瘡(天然痘)にかかったからです。当時はその病で死ぬ人も多かったので、命をとりとめただけでも幸運ではないでしょうか。

一命をとりとめたものの、右目を失明し、その目は飛び出てしまっていたとも言われています。

一説によると、そんな姿を嫌った母(義姫)に遠ざけられ、また自分のその姿を疎んじた政宗は暗い性格になったといいます。

義姫と疎遠だったのは事実のようですが、果たして一命を取り留めた我が子にそんな態度をとるものでしょうか?

当時は母が自ら子育てをすることはなかったので、有り得たのかもしれませんがちょっと理解し難い感覚です。

さて、そんな政宗のもとに片倉小十郎が仕えることになります。彼もまたゲームで有名だと思いますが、政宗より十歳ほど年上の武将です。

小十郎は政宗の右目を斬り落とし、それ以来政宗は眼帯を着用し、性格も明るくなったと言います。それほど容姿がコンプレックスだったんですね。

隻眼の武将

政宗以外に、隻眼の武将はいたのでしょうか?政宗と重なる年代ですと

  • 前田利家(1539年ー1599年)1560年前後の戦で負傷し、隻眼になったという説があります
  • 本田重次(1529年ー1596年)戦によって色々と負傷していたようで、片目片足だったとされます。指も何本か欠損していたようです。

いかにも「隻眼」とした武将は以上の2名しか見当たらなかったのですが、政宗のように病が原因で…となった武将はいないようですね。大体が戦による負傷から隻眼になったようです。

ちなみに隻眼ではないのですが、伊達政宗の従兄弟にあたる伊達成美は、城が火事になったさいに火傷をおい、右手の指が全てくっついてしまい、生涯そのままだったそうです。

独眼竜

独眼竜とは後世につけられた呼び名ですが、李克用という唐に仕えていた武将に由来します。

政宗を「独眼竜」としたのは江戸時代後期の「多賀城瓦硯歌」という詩に見られます。

それから現在に至るまで、彼は「独眼竜伊達政宗」として知られるようになるのですから、影響力は強いのでしょうね。

政宗が隻眼であることを利用したかはわかりませんが、派手なフォーマンスを行って豊臣秀吉に気にいられようとした節もありますから、ひょっとすると隻眼を利用したエピソードもあるかもしれません。

ちなみに政宗は、徳川家光から非常に尊敬され「伊達の親父殿」と呼ばれたこともあるようですよ。

政宗には、身体ハンデに負けない強さがあったのでしょうね。

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