歴史に「if」はタブーであり、同時に付き物でもあります。「もし○○でなかったら、●●だったかもしれない」という想像をふくらませて、現代の私たちは当時の人々に思いを馳せるわけです。それがまたワクワクするんです。
太原雪斎は、桶狭間の戦いのわずか5年前、1555年に没しています。
もし、彼が生きながらえていたなら、桶狭間の戦いはいったいどうなっていたのでしょうか。今川義元の戦略に変化はあったのでしょうか?
じっくり検証してみたいと思います。
雪斎が生きていたら、桶狭間の戦いはなかった!?
まずは、もし雪斎が生きていたら桶狭間での敗戦はなかったと言われたりしますが、彼は何故そこまで雪斎は評価されているのでしょうか。
雪斎が義元の教育係であったことは、よく知られた事実です。出家して一生を寺で終えるはずだった義元を、家督争いに担ぎ出し、その争いを勝ち抜き、「海道一の弓取り」と称される大名にまで育て上げたのは、すべて雪斎の功績だったと言っても過言ではないでしょう。彼が義元に授けた教育のすべてが、今川氏の繁栄に直結したのです。
また、雪斎は甲相駿(こうそうすん)三国同盟の仕掛け人でもありました。時勢を読み、大局を見る目を持ち、緻密な計算に基づいて提唱した同盟策には、彼の軍師としての並外れた力量が見て取れます。
一方、雪斎の教育を受けた義元は、内政にも優れた業績を残しました。商業の保護や家臣たちの結束強化、今川仮名目録の追加法制定などが行われましたが、こうしたことも雪斎の教育あってのことです。おそらく、多くの助言もしているはずです。
雪斎の頭脳から生まれたものが、今川氏の基礎を作っていたと言えると思います。
ですから、雪斎なくして今川氏は有り得なかったのですね。だからこその高評価なのではないでしょうか。
雪斎が生きていたら、桶狭間において義元の戦略や采配は変わった!?
雪斎が生きていたら、桶狭間で義元が討たれることはなかったという説は今でも強く主張されています。
確かに雪斎なら信長の策を見抜くことができたかもしれません。
もしかすると、桶狭間に軍を止めることもなく、戦い自体が起こらなかったという可能性もあります。
ただ、時運は完全に信長に味方していたので、ここを加味すると、どうなったかはわかりませんが…負けていたとしても、義元が死ぬようなことはなかったのではないでしょうか。
雪斎が生きていたら、義元は尾張方面に向かうことはなかった!?
以前は、義元が尾張方面を目指した理由が上洛のためであると言われていました。もしそうであるなら、雪斎は戦いを回避し、織田方と交渉して領内を通過していたかもしれません。
彼は甲相駿三国同盟を提唱するほどのネゴシエーターでしたから、それくらいはやってのけたと思います。
ただ、桶狭間の戦いはそもそも国境紛争であったという説が今では主流となりつつあります。その場合、雪斎ならどうしていたでしょうか。
まず、上洛は二の次であり、地固めが先だったでしょう。自領の拡大のために、最終的には尾張を制圧するために軍を向けたかもしれません。
周辺を完全に今川のものとしてから、背後の武田・北条に対処したことでしょう。足利将軍は健在でしたし、今川家は姻戚関係にもあったので、上洛して天下に号令ということまでは考慮しなかったのではないかと思います。
まとめ
ifの話であっても、想像を巡らすのは面白いですね。
徳川家康や山本勘助が言ったように、雪斎がいなければ今川は成り立ちませんでした。
だからこそ、もし雪斎の寿命がもっと長かったなら、色々なことが変わったのではないかと思うのです。