驚愕の新事実!? 今川義元は武士なのに馬に乗れなかった?
戦において大事なもの。
兵はもちろん、武器や兵糧もそうですが、そう、馬は欠かせないものでした。
当然、武将はみな馬に乗れると思いますよね。現代で考えてみると、乗馬ができるってすごいことです。
ところが、今川義元に関しては、馬に乗れなかったという説が割と聞かれます。
これは本当なのでしょうか。「海道一の弓取り」と謳われた彼が、馬に乗れなかったとはこれ如何に!?
検証してみる必要がありそうです…!
義元が馬に乗れなかったという話の真偽
義元が太っていて馬に乗れなかったという説が多く聞かれますが、実は、これは江戸中期以降に創作されたものです。
確かに、彼は輿に乗っていました。しかし、これには理由があります。
今川家は室町幕府将軍の足利家と密接なつながりがありました。そのため、将軍から輿の使用を認められていたのです。
これは特別待遇で、そう簡単に許されることではありませんでした。これを誇示するために、主に輿に乗っていたと考えられます。
そのため、彼が馬に乗れないという説につながってしまったのですね。
もちろん、実際の義元は馬に乗れます。歴史資料としての評価の高い太田牛一の「信長公記」に、桶狭間の戦いで退却する際、彼が馬に乗っていた記録があります。
ちなみに、桶狭間古戦場跡伝承地のひとつである名古屋の地には、「馬繋ぎのねず」という、義元が馬を繋いだと言われているねずの木があります。
桶狭間の戦いの際、移動してきた手段は何?
義元の本国・駿河遠江から尾張にまで移動してきて行われた桶狭間の戦いですが、彼は何に乗って移動してきたのでしょう。
徒歩はまず有り得ません。総大将が歩くわけがありませんよね。
輿の使用を将軍から許可されてから、彼は好んで輿に乗っています。前述のように、自分の権威の象徴としての輿ですから、これを使わない手はないように思えます。
単なる移動の場面では、おそらく輿に乗って来たのでしょう。
もちろん、戦場においてまで輿に乗るほど、常識外れではなかったと思われます。
だからこそ、戦闘の場面では馬に乗れるよう、随行させていたのだと考えられます。
馬に乗れなかったと言われる武将
俗説では、義元が肥満体であったために馬に乗れなかったと言われたりしますが、それを地で行く戦国大名がいました。
それが、龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ・1529-1584)です。
九州は肥前の大名で、「肥前の熊」の異称を持ちます。勇猛な武将で、島津氏と並ぶ勢力を築き上げました。
しかし、彼は中年以降相当の肥満体であったらしく、宣教師ルイス・フロイスの書簡には、肥満のため6人担ぎの駕籠(かご)に乗っていたと書かれています(輿に乗っていたという説もあります)。
まとめ
今川義元が馬に乗れなかったというのは、後世の創作であることがわかりました。
しかし、輿がステイタスになるとは思いもしませんでしたね。確かに、武将がそれに乗っていたら、少し軟弱なイメージが付いてしまうような気もします。
やっぱり武将は馬に乗っていてほしい…と思うのは、私の勝手な願いでしょうか?