有力な大名の側には、たいていの場合は有能な軍師がいました。
豊臣秀吉にとっての黒田官兵衛・竹中半兵衛、武田信玄にとっての山本勘助など、戦国大名にとってなくてはならない存在でした。
今川義元にもそういう人物がいたのをご存知でしょうか。
別名「黒衣の宰相」とも呼ばれた、太原雪斎という人物です。
いったい彼はどういう人物だったのでしょうか。今川義元を当時最強の戦国大名にまで育て上げた彼について、見ていきたいと思います!
太原雪斎とはどんな人物?
太原雪斎は、臨済宗の僧侶です。1496年に庵原政盛(いおはらまさもり)と興津正信(おきつまさのぶ)の娘との間に生まれました。両親の家は共に今川氏の譜代の家臣です。
幼少時に寺に入り、1509年に得度し九英承菊(きゅうえいしょうぎく)と名乗り、富士山麓の善得寺(ぜんとくじ)で修行を積みました。若くしてその秀才ぶりが知られており、それを聞いた今川氏親(いまがわうじちか)から出仕要請がありましたが、2度も断ったとも伝わっています。
1522年、雪斎が27歳の時、主家の今川氏の五男・芳菊丸(ほうぎくまる)が寺へ預けられます。これが後の義元です。雪斎は彼の養育係となり、以後共に過ごすことになりました。2人は京都の建仁寺を訪れ、そこで芳菊丸が得度し栴岳承芳(ばいがく・せんがくしょうほう)と称するようになります。
この頃、義元の父:氏親が亡くなり、後を継ぐはずだった兄も死去してしまい、家督争いが勃発しました。雪斎は還俗した義元を支えてこの争い(花倉の乱)に勝利し、見事義元を今川家の当主とすることに成功したのです。
以後、雪斎は僧籍にありながら、義元の側近中の側近として、主君の絶大な信頼を得ることとなります。
彼は、政治・軍事の両面にわたって重用されました。
義元にとってはどういう人物!?
義元もまた、雪斎と同じように幼少時(4歳)で寺に入りました。当時雪斎は27歳、師弟関係であると同時に、父子関係にも等しかったのではないかと考えられます。
そして、家督争いに勝利し、戦国時代の真っ只中へ船出していく上で、雪斎は義元にとって、すべての面において最高の助言者でした。
困ったときには雪斎という感じだったかもしれません。
義元が雪斎から学んだこと
将来は僧として仏門の道を進んでいくはずの義元に対し、雪斎は学問の他に兵法を教えました。
それはまるで武士に対する教育であったといいます。他にも和歌を教え、彼が教養人として知られるようになった素地を形成しました。
また、京都滞在の際には、雪斎が義元を連れて室町幕府の要人に面会したりして、人脈作りに一役買ったとされています。
まとめ
残念なことに、雪斎は桶狭間の戦いの前に亡くなってしまいます。
そして、あの桶狭間の戦いで義元は命を落としました。
徳川家康や山本勘助は、雪斎がいなければ今川は続かないといった趣旨の発言をしていますが、まさにその通りになってしまったわけですね。
もし、雪斎が生きていたなら、桶狭間の戦いの様相は変わったのか、気になるところです。