桶狭間の戦いの後、今川義元の首はいずこへ?
1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いにおいて、今川義元は織田家の家臣・毛利義勝に討たれ、首を取られてしまいました。
しかし、この首、いったいどこに行ってしまったんでしょうか?どこかにちゃんと葬ってあげたのでしょうか?
首実検にかけられる
戦国時代においては、戦で活躍しどれだけ首級を挙げてきたかということが、とても大事なことでした。毛利良勝は義元の首を挙げ、論功行賞の確たる証拠とすべく大事に持ち帰ったはずです。
義元の首は、愛知県名古屋市にある長福寺で首実検にかけられました。これは長福寺の案内板に書かれているのですが、義元の茶坊主であった林阿弥(りんあみ)が首実検を命ぜられています。その後、首は清須市の須ヶ口という所でさらされました。
では、さらされた後の義元の首はどうなったのでしょう。
岡部元信、主君の首を取り戻す
義元が桶狭間で織田信長に敗れてからも、岡部元信(おかべもとのぶ)という今川方の重臣は、現在の名古屋市にあった鳴海城で奮戦していました。岡部は信長と交渉し、義元の首と引き換えに、鳴海城を明け渡すことにしたのです。
首を受け取った岡部は、駿河国を目指します。しかし、当時は初夏でした(桶狭間の戦いが6月12日)。
首実検をするときは、塩漬けにしたりして腐敗の進行を何とか遅らせようとはしますが、気候のせいでなかなかそれも長続きしなかったのでしょう。傷みが早く、岡部はやむなく途中立ち寄った寺に塚を築いて首を埋葬しました。ここが、愛知県西尾市にある東向寺(とうこうじ)です。
寺の伝承では、4代目徳順上人は義元の叔父にあたり、ゆかりある寺であるためにここに埋葬したとも言われています。
しかし、こんな話もあります。
義元の首を携えた岡部は、駿府の天沢寺(現在は廃寺)というところに首を埋葬します。その後今川家の菩提寺である臨済寺(静岡市)に移したのだという話が、ここには伝わっているのです。ここにも義元の墓や位牌があり、霊廟も建てられています。
それだけでなく、桶狭間の古戦場跡にも、義元の墓と伝えられている墓石が残されています。
葬るのは首だけではありません
一方、胴体はというと、首を取られた後に義元の家臣が運んで帰ろうとしましたが、やはり傷みが激しくなり、愛知県豊川市の大聖寺(だいしょうじ)に胴塚を築いて葬りました。義元の嫡子・氏真が、ここで三周忌を営んでいます。
義元の首を取り戻した忠臣・岡部元信は、その後義元亡きあとの今川領に侵攻してきた武田家(武田信玄・勝頼)に仕え、徳川家康の侵攻に対して果敢に抵抗し、高天神城の戦いで玉砕に近い形で戦死しました。どこまでも主君に忠義を尽くした人物だったのですね。
首実検って、見せる前に首をきれいにしてあげるらしいんですが(洗ったりとか薄化粧とか)、これって、武家の婦女の役割だったそうですよ。戦国の女は、肝が据わっていないとダメだったようで…。