豊臣秀吉の墓は一体どこにある!?遺骨が埋まる場所とは

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戦国大名の墓って、ひとつでなかったりしますよね。いろいろなところに散らばっていて、いったいどこが本物なの!?と頭を悩ませることもあったり…。本当にそこに遺骨が埋まっているのかも定かでなかったりします。

豊臣秀吉の墓も、ぼんやりとした謎に包まれている墓のひとつです。

秀吉はいったいどこに埋葬されているのでしょうか。徳川家康によって破壊されたという話は、本当なのでしょうか。

それでは、検証してみたいと思います。

秀吉の墓のありか

豊国廟(ほうこくびょう):京都府京都市東山区

秀吉は1598年に亡くなりましたが、その遺言によって京都市東山区にある阿弥陀ヶ峰(あみだがみね:標高196m)の中腹に葬られました。

埋葬した場所に豊国廟が建てられ、阿弥陀ヶ峰の麓に社殿が建設されました。これが豊国神社(とよくにじんじゃ)です。秀吉は天皇によって豊国大明神の神号が与えられ、毎年祭礼として豊国祭が行われることになりました。

しかし、1615年の豊臣家滅亡によって事態が急展開します。天下人となった徳川家康は、豊臣家は滅んだのだから神として祀る必要はないとし、豊国神社の破却を命じました。

大坂城も埋めてしまったりと、家康は徹底的に豊臣の影を排除したわけです。対抗勢力がもはやいなくなった家康でさえも、もういない豊臣家の人気は恐るべきものだったのですね。

家康の破却命令に対し、秀吉の正妻・北政所(おね:出家してこの時は高台院と称した)は、それだけは勘弁してほしいと懇願しました。旧知の仲の彼女の願いを家康は聞き入れ、豊国神社は修理せずにそのまま放置し、朽ち果てるままにという処置が決定します。

その後風雨にさらされた豊国神社は荒れていきました。しかし、明治時代になると、秀吉を顕彰する豊国会によって再建が始まります。その中心は、黒田長政(くろだながまさ)の子孫に当たる侯爵・黒田長成(くろだながしげ)でした。

1897年、秀吉の300年忌に際し、廟が再建され、阿弥陀ヶ峰の頂上に高さ10mの五輪塔が作られました。しかしなんと、この4年後の工事中に偶然、秀吉の遺骸とおぼしき遺骨が入った大甕が発見されたのです。そして中身は丁重に再埋葬されました。

社殿の方は、1880年に方広寺(ほうこうじ)の大仏殿跡に再建されています。方広寺といえば、豊臣秀頼の時に「国家安康 君臣豊楽」の鐘が奉納され、「家康の名を分断し、豊臣を君としようとしている」と家康側から文句が付けられたあの寺です。新たに完成した豊国神社の見事な唐門は国宝に指定され、伏見城の遺構とも伝わっています。

高野山 奥の院:和歌山県伊都郡高野町(わかやまけんいとぐんこうやちょう)

金剛峯寺(こんごうぶじ)の境内となっているこの場所には、多くの大名や公家などの墓があります。戦国大名の6割の墓がここにあるとされています。当時の高野山信仰を裏付けるものとされています。

秀吉の墓もここにあり、他には織田信長、明智光秀、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗の墓も共に並んでいるのです。かつて戦った者同士が並んでいる様子はちょっと不思議です。

不動院(安国寺):広島県広島市

この寺にある墓は、「太閤豊臣秀吉公の遺髪の墓」とされています。

かつて不動院は安国寺といい、秀吉や毛利家に仕えた安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が住職を務めたこともありました。秀吉が朝鮮出兵の時に滞在したと言われています。

しかし、西軍に与した恵瓊は処刑され、後に領主となった福島正則(ふくしままさのり)が、寺の名がさすがに反逆者の名前ではまずいだろうということで改名したのだそうです。

俊龍寺(しゅんりゅうじ):山口県山口市

毛利輝元(もうりてるもと)が、秀吉の訃報を聞いて建てさせた墓があります。秀吉から拝領した甲冑も納められているそうです。

ちなみに、室町幕府最後の将軍:足利義昭の供養墓もここにありますよ。

寺の名前は、秀吉の法名である「国泰祐松院殿霊山俊龍大居士(こくたいゆうしょういんでんれいざんしゅんりゅうだいこじ)」から取られています。

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遺骨が埋葬されている可能性が高いところ

前述の墓の中で、高野山と不動院、俊龍寺に遺骨がある可能性は限りなく低そうです。

となると、阿弥陀ヶ峰にある豊国廟に埋葬されていると考えるのが自然でしょうか。

その有力な根拠は、明治時代に行われた改葬の際に遺骨の入った大甕が見つかったことです。

埋葬された記録

まず、江戸時代の公家にして国学者である野宮定基(のみやさだとも)による「定基卿記(さだともきょうき)」にはこのように記されています。

「元禄元年(1688年)11月、妙法院(方広寺や三十三間堂を兼帯した大寺院で、江戸幕府には協力的だった)に奉公していたという老人が現れて言うには、秀吉公の神廟は屋根が瓦葺、四方は方形で板張りで中は二間ほどの板敷きとなっており、甕が埋まっているという。その上には二間四方の石が載っている。

しかし、妙法院2代目の時、盗賊に甕を掘り当てられ、太刀や黄金、甲冑が持ち去られてしまった。その後埋め直したと言う」

これが事実ならば、秀吉の遺体は甕に入っていたことになります。

それに加えて、1901年の廟再建に関する工事中に、遺体の入った大甕が見つかりました。遺体は西を向き、手を組んで座った状態だったと言われています。

ただ、考古学的知識に乏しかった当時のこと、不手際で遺体を損傷してしまい、崩れてしまったのだそうです。そして、遺骨は絹の布にくるみ、豊国会の墓誌と共に五輪塔へ埋められたと言われています。

ただ気になるのは、遺骨の様子などが記録としてほとんど残されていないということです。

もう少し後の時代であったなら色々と鑑定もできただろうに…と残念な気持ちではあります。それが秀吉の遺骨であったという100%の証明はできずじまいなのですから…。

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まとめ

100%とは言い切れなくても、かなり高い確率で、秀吉は阿弥陀ヶ峰に眠っているのでしょう。

頂上の五輪塔に辿り着くまでには565段もの石段を登りきらなければなりませんが、秀吉に会いたい方はぜひ、乗り越えてください!

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投稿者プロフィール

歴史と犬の話題があれば生きていける、そんな人間です。
平安時代と戦国時代が好きですが、調べ出したらどの時代でも面白いです。歴史って本当に面白いものですね。
「トリビア」な話題を、みなさんにわかりやすく面白く読んでいただけるように頑張ります。

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