平安美人の代表 小野小町ってどんな顔をしてたの?

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平安時代の美人と言えば、小野小町の名がすぐ挙がります。

では、小野小町とはどんな顔だったのでしょうか。

写真なんてなかった時代ではありますが、様々な史料から、小野小町ら平安貴族の姫君たちのお化粧事情が、ずいぶんとくわしく分かっています。

平安時代 美人の条件

平安時代、美しさの条件とされたのは、引き目鉤鼻下膨れにおちょぼ口、そしてとにかく色が白いこと、髪が長いこと。小野小町の髪の長さは隣の部屋まで届くほど、との話もあります。

この時代、13歳くらいになると大人としての装いを許され、歯を黒く染める「お歯黒」、眉を全部抜きずいぶん上の方に改めて書く「引き眉」などをしたとされます。

顔を白く塗ったのは、薄暗い室内でも顔が分かるように。

当時は電気なんてもちろんなく、照明として使えたのは、月明かりと、芯に油を吸わせて灯すろうそくのようなものだけでした。ほとんど真っ暗い部屋でも、白粉をく塗りたくったお顔はぼんやりと白く浮き上がり、顔の位置を知らせてくれます。

眉をうんと上にかいたのも、顔に影がかからないようにつるんと白い部分を強調するためでした。

陰影という意味では、黒髪とのコントラストも映えますし、お歯黒もまた同じです。

さて、当時の白粉は水銀や亜鉛などが含まれ、今でならその金属中毒が懸念されるところですが、発色が良いので重宝されたよう。

ただし、ものすごく伸びが良くないので、とにかく厚塗りをしていました。当然渇くとピキッとなるので、極力笑わないようにして真顔をキープ。

笑う時も大口なんて開けられません。オホホ…とやるのでそれが上品な仕草として定着していきました。

そんな時大活躍なのは扇です。白粉崩れを隠し、笑いたくなるような光景は見ないようにする、まさに扇は平安美人の必須アイテムだったんですね。

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小野小町の容姿はやっぱり超絶美人!?

残念ながら、小野小町の容姿はこうであったという史料は見つかっていません。

肖像画もありません。それだけではなく、平安絵巻を見ると、そういうお化粧のせいかみな同じ顔のように見えます。

上記の白粉の話でもしましたが、伸びにくい白粉をコッテリ塗って、現代からしたらとんでもない位置に眉も描き、歯が黒くかったら・・・・正直言ってどんな顔の作りの女性でも似たような顔になるような気がします。

ということは、もともとも顔のつくりが云々というよりも、「美の基準」がほかにあったことがわかります。

当時の美人の基準は、いい匂いがすること(お風呂の習慣がなかったので代わりに「香」が発達)、髪が長いこと、和歌が上手いこと。

その他にも、単衣の色合わせが上手だとか、筆跡が綺麗だとか、教養があるとか、外見の美しさよりも内面的なものの美しさを重視していたようです。

小野小町は美人ではない?!

小野小町が美人だという話の根拠として挙げられるのは、小町と同じ六歌仙、三十六歌仙の一人、紀貫之の言葉です。

小野小町は衣通姫の流れなり

衣通姫(そとおりひめ)とは記紀に登場する伝説の美女です。

この紀貫之の文章を読んだ後世の人たちが、

「あの伝説の美女といわれる衣通姫の流れだって?じゃ、小野小町も美人に決まっているじゃないか!」と、解釈したようです。

研究者の間では、小野小町の顔は決して美人ではなかったと言われることもあるそうです。

しかし、小野小町がもらった大量の恋文を収めたという文塚が残っていたり、

”花の色は うつりにけりな いたづらに わが身夜にふる ながめせしまに

という有名な和歌に見られるように、自分の容貌を「花の色」に例えている小野小町が、不美人であったとは思えないのです。

モテモテだった小野小町。

華やかな平安王朝で多くの情熱的な歌を詠んだ小野小町は、いまも美人の代名詞として私たちに古(いにしえ)の雅を伝えてくれています。

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北村美佳子

北村美佳子

投稿者プロフィール

いにしえに想いを馳せて、一人涙し、一人ニヤつく。そんな日本史をこよなく愛するライター。重度の活字中毒でもある。愛読書は梅原猛氏の本。
日本史が好き過ぎて、記事を書きながら悶絶することも多々あるけれど、いくつになっても好きなものは好きだと言える女でいたい、そう願って邁進中であります。

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