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松下村塾の四天王 久坂玄瑞 高杉晋作 吉田稔麿 入江九一の生涯

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吉田松陰の松下村塾には、四天王と呼ばれた駿才がいました。 久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一がそれです。

幕末の動乱期に登場して若くして死んでいったこの四人は、なぜ四天王と呼ばれるようになったのでしょう。

松下村塾のトップは高杉晋作と久坂玄瑞

伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義ら多くの維新の志士、明治の元勲を輩出した松下村塾ですが、その中でも一、二を争ったのが、高杉晋作と久坂玄瑞の二人でした。

高杉と久坂は、「識の高杉、才の久坂」と並び賞されていましたが、この言葉に二人の才能の違いがよく表れています。

識は知識で高杉晋作は物事をよく知り、才は才能で久坂は天賦の才があったということでしょう。 いわば高杉は秀才型で、久坂は天才型だったのかもしれません。

この二人に吉田稔麿を加えて、松陰門下の三秀という呼び方もされました。 さらに入江九一を合わせたのが、松下村塾の四天王という呼び名なのです。 この四人はどのような業績を残した人物なのでしょうか。

久坂玄瑞

久坂玄瑞は天保11年(1840年)に、萩藩医久坂良迪の三男として生まれ、藩校医学所好生館と藩校明倫館に学びます。 学業半ばの嘉永7年(1854年)までに両親と兄が次々に亡くなったため、15歳で家督を相続し、18歳で松下村塾に入門します。

久坂の才能を知った吉田松陰は久坂を「防長第一流の人物」と評し、妹のお文を久坂に嫁がせます。 安政の大獄で師の松陰が亡くなると、玄瑞は松陰の遺志を継いで長州藩の尊王攘夷運動のさきがけとなります。

文久2年(1862)年、同志高杉晋作らと攘夷血盟を行った久坂は御楯組を結成し、品川御殿山に建設中だった英国公使館を焼き討ちします。

その後、京都に入った久坂は、8月18日の政変によって長州勢力が一掃された後も、京都に留まり京における長州尊攘派の勢力回復に努めます。 元治元年(1864年)池田屋事件によって、尊攘派志士の多くが討たれたことが伝わると長州藩内には実力入京の論が盛んになり、ついに真木和泉らが諸隊を率いて進軍を開始します。

禁門の変と呼ばれたこの戦いは長州に不利に動き、久坂玄瑞も鷹司邸内で自刃したのでした。

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高杉晋作

天保10年(1839年)長州藩士・高杉小忠太の長男として生まれた高杉晋作は、嘉永5年(1852年)に藩校明倫館に入学、幼いころからの知己であった久坂玄瑞の薦めで、松下村塾の門を叩きます。

優秀だった高杉は、その後藩命で江戸へ遊学し、昌平坂学問所に学びます。 この当時、吉田松陰は老中・間部詮勝襲撃計画の罪で江戸小伝馬町の牢に投獄されていたため、高杉は囚われの身の師の世話もすることになります。

安政6年(1859年)、遊学期間も終わって長州へ戻った高杉を待っていたのは吉田松陰刑死の報せでした。

文久3年(1863年)関門海峡で外国船砲撃事件が起きると、高杉は松陰が描いた近代的な軍隊である奇兵隊を結成しその初代総督となります。

文久4年の下関戦争、第一次長州征伐といった藩の危機に、高杉はその能力を認められ、藩の攘夷論の中心人物として、薩長同盟結成、第二次長州征伐などに重要な役割を果たします。

しかし、肺結核に蝕まれていた高杉は政治の第一線を離れ、ついに慶応4年(1867年)その短い生涯を閉じます。

By: ume-y

 

吉田稔麿

天保12年(1841年)、萩藩の足軽吉田清内の長男に産まれた吉田は、安政3年(1856年)に増野徳民の推薦で松下村塾の塾生となります。 寡黙ながら謹厳実直な人物であった吉田は、松陰から「才気鋭敏にして陰頑なり」と評されています。才能はあるが陰では頑固だというのでしょう。

これは、高杉晋作の陽頑という評の対になっています。つまり、高杉は頑固さが表に出るが、吉田は見た目では分からないが簡単に自説を曲げたりしない、というのです。

吉田松陰の投獄から処刑後は、一門親族に累が及ぶのをおそれて藩内に雌伏しますが、万延元年(1860年)に脱藩。京都で志士としての活動をした後、高杉晋作の奇兵隊に参加します。

その後、屠勇隊を結成するなど、長州藩の軍事活動にも力を及ぼし始めます。 元治元年(1864年)の池田屋事件では、池田屋から屯所に戻った際に事件が起き、池田屋に駆けつけようとしたところを襲われて討ち死にすることとなります。

入江九一

天保8年(1837年)、萩藩の下級藩士の家に生まれた入江は、家計を助けるために下働きをしながら学問に励み、ついに松下村塾で師となる吉田松陰と出会います。

松陰の尊王攘夷思想に傾倒した入江は尊攘運動に奔走しますが、公武合体派が主流だった当時の長州では不届きとして捕らえられ、萩の岩倉獄に投ぜられます。 しかし、藩論が攘夷か開国かで揺れる中で釈放され、藩内が攘夷に決すると、その影響力も大きくなっていきます。

文久3年(1863)の下関の外国船砲撃事件では久坂玄瑞らと先頭に立って戦い、奇兵隊の結成にも参加します。

しかし、8月18日の政変によって長州勢が京都での基盤を失うと、入江は失地回復のため奔走。禁門の変では参謀として奮戦しますが、重傷を負って自決するという最期を迎えています。

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