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痛快なぐらい女好きだった伊藤博文

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明治の元勲の中で、女好きといえば初代内閣総理大臣・伊藤博文の右に出る者はいない、ということになっています。

他の政治家は女に関しては潔癖だった、という訳ではないのですが、伊藤博文の場合は道楽といえば女だけということで徹底していました。

立派な家に住みたいとも思わないし、子孫に財産を残そうとも思わない、骨董や歌舞音曲の趣味もない、ただ公務のあとで芸者と遊ぶのが唯一の楽しみだと公言していたように、終生芸者との間に浮名を流していました。

当時、女に汚いのが伊藤博文、金に汚いのが早稲田大学を創設した大隈重信というのが世間の評価でしたが、金を貯め込む大隈よりも、金を芸者遊びに惜しげもなく使ってしまう伊藤の方が、むしろ好意的にとらえられていたようです。

伊藤の二人の妻

伊藤博文が最初に結婚したのは松下村塾の塾生時代。

久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿とともに松門四天王と呼ばれた入江九一の妹のすみ子を嫁に迎えています。

その後、馬関の芸者で当時17歳だった小梅にぞっこんになった伊藤は、すみ子を離縁して小梅を二度目の妻にします。後年の芸者好きが偲ばれるエピソードですが、結婚して梅子を名乗るようになった小梅との関係は終生良好で、どれほど女遊びをしようとも、梅子と別れることはありませんでした。

伊藤の芸者遊びを許した賢夫人として評価の高い梅子はいわば芸者上がりですが、江戸から戦前にかけての芸者の地位は単なる酌婦ではなく、社交の席で専門的知識と教養で客をもてなすプロとして一定の尊敬を得ていました。

江戸時代の諸藩の留守居役が外交の場として料亭を使う際の文字通りのホステスとして芸者を活用していたため、維新後も政治家、軍人と芸者の結びつきは強く、陸奥宗光、木戸孝允らも芸者を妻にしています。

伊藤が愛した芸者たち

伊藤と芸者との生活ぶりがよくわかるのは、伊藤の寵愛を受けた新橋の芸者で、のちに料亭田中家の女将になった樋田千穂が「新橋生活四十年」という著書の中で伊藤との生活を詳細に綴っているからです。

それによれば、一人の芸者と寝る時はもう一人を別室に待機させ、情事が終わると鈴を鳴らしてもう一人を呼んで川の字になって寝たなど、伊藤のプレイボーイならではの気配りが見てとれます。

この樋田千穂の孫が新派出身の女優・樋田慶子で、祖母から「つまらぬ男と結婚するより一流の男の妾におなり」と岸信介の愛人にされそうになったのが演劇界入りのきっかけになった、と自著で告白しています。

同じく新橋の芸者・玉蝶は美人の誉れが高かったのですが、唯一の欠点が夜尿症。

それを知った伊藤は、一緒に寝る時は時間を決めて玉蝶を起こし、トイレまで連れて行ったという面倒見のよいところを見せます。

相手にする芸者が多いせいでしょうか、その一方で連れてきた芸者のことをすっかり忘れ、梅子が替わって面倒をみていたという話もあります。

大阪ミナミの芸者だった小雄を気に入った伊藤は、そのまま身請けして大磯の別荘に連れて行き、梅子に預けたまま小雄のことを失念してしまったようです。

芸者といっても小雄は当時13歳、数えならば今の小学校6年生ですから、伊藤も本気で愛人にするつもりはなかったのかもしれません。

最初はあれこれと世話を焼いていた梅子も、子ども特有のわがままを言い出す小雄に手を焼き、伊藤の官舎に送りこむという騒動が起きています。

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女好きが高じて政界をゆるがすスキャンダルに

芸者と遊ぶのが唯一の道楽と言っていた伊藤ですが、実際には水商売以外の女性にも手を出し、スキャンダルにもなっています。

その代表が、鹿鳴館の華と呼ばれた戸田極子です。

極子は維新の十傑の一人で本来ならば伊藤は頭も上がらないような大物の岩倉具視の三女で、苗字が変わっていることからもわかるように、当時は旧大垣藩主の戸田氏共伯爵夫人でした。

伊藤は首相官邸で開かれたパーティの席上、極子を庭に誘い出し関係を持とうとしたようです。

この事件は新聞種になり、伊藤が乱暴したとか、馬車の中で事に及んだとか、極子が裸足で逃げ出したとか、マスコミが面白おかしく書き立てたので実際にはどの程度のことだったのかはよくわかりません。

ただ、事件後、戸田氏共がオーストラリア全権大使に栄達するなど異例の出世を遂げたため、伊藤は権力を行使して事件の解決を図った、と非難されることになります。

明治天皇からお叱りを受けるも動ぜず

伊藤の女道楽は明治天皇の耳にも入り、伊藤を維新以来の忠臣として信頼していただけに明治帝も「少しは慎んではどうか」とお叱りの言葉を与えました。

しかし、伊藤はその言葉にこう答えました。

「博文をとやかく申す連中の中には、ひそかに囲い者など置いている者もいますが、博文は公許の芸人どもを公然とよぶまでです」

この陰湿さのない堂々としたところが伊藤の魅力だったといえましょう。

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