伊藤博文が暗殺された後の遺体の行方とそのお墓はどこにある?
初代内閣総理大臣に就任したことで知られる伊藤博文。
彼はロシアの大臣と満州・朝鮮問題について非公式に話し合うために訪れたハルビン駅で暗殺されました。
そんな彼のお墓はいったいどこにあるのでしょうか。また葬式は日本で行われたのでしょうか?
暗殺された伊藤博文の遺体はどうなった!?
明治42年(1909年)10月26日、伊藤を射殺したのは韓国人の安重根という独立運動家でした。
伊藤は撃たれてから絶命までに30分要したとされていますが、いくつか言葉を残しているそうです。絶命した伊藤の遺体は日本に送られて、11月4日に東京の日比谷公園で国葬が執り行われました。
葬儀は神式で午前11時から始まり、午後1時に式は終わったと記録に残っています。日比谷公園の沿道には日露戦争凱旋の時以上の人が集まったと言われ、そこには伊藤の絵葉書を売る露店が並び、すぐに完売したなんて逸話も残っています。
式~その後
伊藤の葬式は上記の通り神式で行われ、参列者は天皇皇后両陛下の勅使から玉串を捧げていったそうです。
伊藤は生前、後妻である梅子夫人に「自分は畳の上ではまともに死なないと思うから、覚悟しておくように」ということを伝えていました。
しかし、死の知らせを聞いた時は涙しなかった夫人もこの時ばかりは目に涙を浮かべ、伊藤の次女で梅子夫人の娘である生子(ちなみに長女は夭折しているので実質この次女が長女のようなものである)は泣き崩れたといいます。
葬式が終わろうとする頃から降り出した雨の中、伊藤の遺体を入れた棺は馬車に移されて日比谷公園を後にしました。
伊藤のお墓の場所は
その後、伊藤家の邸宅の近くに建てられた1400坪あまりの伊藤家墓所に埋葬されました。住所は東京都品川区大井町6丁目、今でいうと湘南新宿ラインの西大井駅の周辺になります。
そこで、遺族らが最後の別れをして、墓石は多くの花で埋め尽くされたと伝わっています。毎年命日である10月26日の前後にはその墓所の内部が公開されていますので、興味があるという方は訪れてみてはいかがでしょうか。
その霊廟としては郷里である山口県熊毛郡大和町束荷にある伊藤記念公園内に伊藤神社がありましたが、昭和34年に近隣の束荷神社に連座されました。
暗殺者安重根のその後は
伊藤を狙撃したとされる安重根はその場で捕縛され、関東軍督府に身柄を拘束し、明治43年(1910年)2月14日、絞首刑で死刑に処せられました。
韓国では2009年10月26日を「安重根が国権はく奪の元凶である伊藤博文を狙撃した義挙から100周年」として新しい記念館を建設することを予定しているそうです。