菅原道真 恐るべし! 彼が怨霊となって侵したとされる出来事がスゴイ!
現在では学問の神様として信仰されている菅原道真。
彼は平安時代の貴族で政治家でした。宇多天皇に気に入られ、右大臣にまで登りつめた彼は、怨霊となって朝廷に祟りをなしたとされています。
なぜ、菅原道真は怨霊となってしまったのでしょうか。
右大臣から太宰権帥へ左遷
菅原道真は宇多天皇の下で大納言として寛平の治をささえ、さらに宇多天皇に次ぐ醍醐天皇の下では右大臣にまで登りつめました。
しかし、道真の唱える中央集権的な財政に、朝廷に力が集中することを嫌う藤原氏などの有力貴族たちの反発がしだいに表面化してきました。
901年、道真は従二位に叙せられますが、「菅原道真は、醍醐天皇を廃位させて、自分の娘婿である斉世親王の即位を謀っている」という藤原時平の讒言により醍醐天皇は立腹、道真は右大臣の任をとかれ、太宰員外帥とされました。
左遷された恨みから怨霊として復活!?
太宰権帥は元々は大宰府のトップであり、貴族の憧れの要職でした。しかし、道真が叙せられた太宰員外帥は、高級官人の左遷用のポストでありました。給与はともかく従者も与えられず、あてがわれた家はあばら家と言えるほどのものでした。このように、大宰府での生活は苦しく、道真は左遷されてからわずか2年後の903年、大宰府の地に没しました。
その道真の死後、京には異変が相次ぎます。
まず、909年に道真を陥れた藤原時平が39歳の若さで亡くなります。
そして、923年には醍醐天皇の息子で皇太子であった保明親王が、次いで925年には保明親王の息子で皇太孫となった慶頼王が相次いで亡くなります。
さらに930年朝廷の清涼殿に落雷があり、大納言藤原清貫を始め複数の要人たちが死傷するという事件がおきました。それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し落雷があった3か月後に崩御しています。また、落雷はこれだけにとどまらず、京の都に何度も起きました。
しかし、道真の土地であった桑原には一度たりとも落雷することはありませんでした。
そのため、時平の死から始まる異変は道真の怨霊のしわざだと考えた朝廷は道真の罪を赦し、追贈を行いました。
さらに道真に連座して流刑にされていた息子たちも赦免されました。
清涼殿落雷事故から道真の怨霊は雷神と結び付けられました。そして道真の怨霊を鎮めようと、火雷天神が祀られていた京都の北野に北野天満宮が建立されました。こうして道真は「天神さま」とされ、ここから天神信仰が全国に広まることとなりました。
道真は本当に朝廷を恨んでいた!?
道真は時平を筆頭に、自分を閑職に追いやった朝廷を恨んで怨霊になったと思われていました。
しかし、歌の得意であった道真は、自分を重用してくれた宇多天皇を想った歌は詠んでいますが、朝廷に対する不満や醍醐天皇に関する歌は残されていません。
もしかしたら、醍醐天皇やその他の政敵と言われた者たちに対して不の感情があったかもしれませんが、怨霊となるほど恨んではいなかったのではないでしょうか。
むしろ現実を冷静に受け止めていた気がします。
「駅長莫驚時変改 一栄一落是春秋」 これは大宰府に向かう途上で立ち寄った明石に立ち寄った時、その駅長が道真に同情したのに対して答えた歌です。意味は「駅長時が変わり改められるのを驚くことなかれ 栄えるのも一時、落ちるのも一時、これが世の中というものだ」。
そんな道真が怨霊とされたのは、逆に讒言で道真を陥れた朝廷側の心苦しさの表れだったのでしょう。