菅原道真が太宰府に左遷された理由は?
学問の神様として知られる菅原道真。その道真を祀っている神社は「天満宮」といい、日本全国に100以上あります。
そのうち全国天満宮の総本社とされているのが福岡県にある太宰府天満宮で、道真の墓もここにあります。
道真は福岡にどんな縁があるのでしょうか。
文章道の名門・菅原家に生まれる
道真は845年、奈良・京都のあたりに生まれました。後に神格化されたためか「天女の子」という説もあるそうです。
道真は小さいころから漢詩や和歌の才能があり、862年18歳にして文章生となり、さらに23歳のときには文章生の中でも2人しかなれない文章得業生になります。
もともと道真のうまれた菅原氏は文章博士を務める家柄で、道真も祖父・父のあとを継いで文章博士となりました。
文章博士は大学という中央官僚育成機関で教育を行っていましたが、菅原氏の教え子たちは私塾にも集まり、増えすぎて部屋から溢れ廊下にまで及んだことから、その門弟たちは「菅家廊下」と呼ばれたそうです。
天皇の信任で大出世
名門の生まれでしたから、着々と出世した道真でしたが、そんな彼をさらに躍進させたのが宇多天皇からの信任でした。
平安時代の当時というのは、天皇家と縁戚関係を築くことで力を握っていた藤原氏が権勢をふるっていました。
しかし阿衡事件で藤原氏に悩まされた宇多天皇は、事件を収束させた道真を重用し始めます。
891年に天皇の秘書ともいえる蔵人頭に補任されたのを皮切りに、様々な要職をつとめ、宇多天皇の信任を得ていきました。
面白くない藤原氏は…
道真が重用されるということは、自然と藤原氏が政治の中枢からじりじりと離れていかざるをえません。
こうした状況が面白くないのは藤原時平です。
時平は阿衡事件で宇多天皇を悩ませた藤原基経の嫡男でしたが、基経が亡くなったとき20歳と若年であったため、道真に先を越される形になっていました。
そんな時平は宇多天皇が醍醐天皇に譲位したことをきっかけに、醍醐天皇と組み道真を排除しようと動き始めます。
901年時平は醍醐天皇に、道真は宇多天皇の第3子・斉世親王を皇位につけ、醍醐天皇から皇位を奪おうとしていると讒言。その罪で「太宰権帥」として太宰府に左遷されることとなったのです。
道真は学問の神様に
903年、道真は太宰府で死去します。しかしその頃都では疫病や異常気象に悩まされていました。醍醐天皇はこれを「道真の祟り」と恐れ、太宰府にあった道真の墓所の上に社殿を造営します。これが太宰府天満宮です。
室町時代ごろになると、道真の怨霊に対する恐れも少なくなったことで、生前道真が学問に通じていたことが注目され、学問の神様として信仰されるようになりました。
現在も多くの受験生たちが訪れる太宰府天満宮。ある調査によると全国の合格祈願神社人気No1にも選ばれたそうです。
社殿に向かって右側にある梅の木は、都の道真の屋敷の庭にあった梅の花が主を追いかけて飛んできたものとされ、合格祈願の時期になると受験生を応援するかのように美しい花を咲かせ、天満宮の象徴ともなっています。
「ウメサク」神社に祈願すれば「サクラサク」!今年も多くの受験生を見守ってくれていることでしょう。