真田幸村の墓が鹿児島にあるという伝説に迫る!
大坂の陣で最も勇猛果敢であった武将といえば、まず名前が挙がるのが真田信繁こと真田幸村だと思います。徳川方を何度も苦しめ、追いつめた彼の戦いぶりに、溜飲を下げた人も多いのではないでしょうか。
しかし、鬼神のごとく活躍した彼も、力尽きるときが来ます。天王寺・岡山の戦いでの奮戦で疲れ切った彼は、休息を取った安居神社で討ち取られました。
以上が史実ということになっていますが、彼には生存説というのが根強く残っているんです。
では、彼はどこへ逃れたのでしょうか?
大坂の陣で死ななかったという話が、なぜそんなことに?
大坂の陣が終結した後にとあるわらべうたが流行しました。
「花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退(の)きも退いたり鹿児島へ」
というものです。自害したはずの豊臣秀頼を連れて幸村が鹿児島へ逃れたと、人々は歌にのせて噂しました。
もちろんこれでは噂話の範疇にすぎませんが、当時の平戸のイギリス商館長リチャード・コックスが、日記の中でこのように書いています。
「秀頼は重臣5,6名と共に生存し、おそらく薩摩に居るだろうと聞いている」
ということなのです。重臣の中には幸村が含まれている可能性がありますね。
秀頼は遺体が発見されなかったため生存説が流布することとなりましたが、幸村はどうしてなのでしょうか。
というのも、幸村には多数の影武者がいたそうなのです。大坂夏の陣の決戦において、「真田左衛門佐(=幸村のこと)」を名乗る武将がやたらと現れました。討ち取り次第、徳川方で首実検もしたのですが、どうにも決め手にかけたようです。そのため、いったいどれが幸村の首なのか、はたまた本当に幸村の首があるのか、わからなかったのです。
鹿児島に逃れた幸村のその後
では、幸村が鹿児島に逃れたという前提で進めていきましょう。
幸村は秀頼と共に島津方の船で鹿児島へ逃れました。そこは鹿児島県南九州市頴娃(えい)町牧ノ内の雪丸地区で、幸村はそこで芦家左衛門と名乗ったそうです(伊賀倉俊貞による「鹿児島外史(島津外史)」による)。後に子をもうけ、その子孫が別府で真江田姓を称し、その墓には真田家の家紋「六文銭」が刻まれているといいますが、この辺は事実かどうか諸説ある模様です。
一方、肥前松浦藩主の松浦静山(まつらせいざん)による「甲子夜話(かっしやわ)続篇」によると、静山は信州松代藩主真田幸貫(さなだゆきつら)との会話の中で、「家(真田家)の幸村は薩摩にゆきたるとおぼし」と聞かされました。
後日、幸貫がそれを教えてくれた相手(熊本藩町奉行の斎藤孝寿)と交わした書状を見せてくれて、そこには幸村は秀頼と共に薩摩へ逃れ、幸村は頴娃に住み「頴娃の山伏」と呼ばれたと書いてあったというのです。
真田幸貫は松平氏から養子に入ったとはいえ、真田の人間ですから、その人が言うことは巷説よりも真実味があるように思えます。
幸村の墓は鹿児島にあるのか?
先に述べたように、鹿児島県南九州市頴娃町牧ノ内雪丸地区に、「田原家私有林墓石」という、幸村の墓と伝承されているものがあります。
実は幸村の墓は他にもあって、鹿児島から秋田に移り住んだという説のもと、秋田県大館市の一心院にも墓があるのです。この墓石には「信濃屋長左衛門事真田左衛門佐幸村之墓」と刻まれています。
また、京都・宮城・長野・福井など多くの府県に供養塔や供養墓がつくられています。
まとめ
ひっそりと生き延びていて欲しいという思いもありますが、生き延びていたなら再び颯爽と表舞台に現れて欲しかったという思いもあります。
いずれにせよ、生存説がこれだけ唱えられる人なのだから、人々に敬愛されていたのでしょう。戦乱の世の最後のスーパーヒーローの最期は、謎に包まれていた方がカッコいいのかもしれません。