織田信長の側室は何人いた!? 信忠の母(生駒吉乃)とは?
戦国時代にたくさんの武将がいる中で、天下統一まであと少しというところまで迫った織田信長。その側室は何人位いたのでしょうか?
信長には24人の子供がいました。子供の数だけ母がいるということは、のべ数で最大でも24人はいたということになります。しかし、信長の子供とされる全員の生母がはっきりしているわけではなく、本当に信長の子供なのかも定かでない者もいるようです。では、ざっくりとそれぞれをみましょう。
側室の名前とその子供
多くの子供の中でも男子を産んだ側室に注目してみましょう。
- 生駒吉乃…信忠(嫡男)・信雄(次男)
- 坂氏…信孝(三男)
- 養観院…羽柴秀勝(四男)
- 興雲院(お鍋の方)…信高(七男)・信吉(八男)
- 原田直子…信正(庶長子)
- 土方氏…信貞(九男)
男子でも母不詳の者も多く、母不詳とされている事が多いようです。
子供を産まなかった側室や、出先で見初めたその時だけの関係の可能性も考えれば側室はもっと多かったのかもしれません。
側室と男子のみに着眼してみると、信長の正室である濃姫(帰蝶)との間には子供はなかったともいわれています。正室に世継ぎがいなかった場合、側室の子から嫡男を選ぶ可能性は高いと思います。しかし、多くの側室がいるその中で、嫡男となった信忠の母・吉乃とはどういう人だったのでしょうか?
信忠の母、生駒吉乃(いこま きつの) について
生駒家宗の長女で1528年頃の生まれと推測されています。信長は年1534年生まれなので年上になります。ところが、29歳の時に亡くなっているという説もあり、はっきりした年齢は不詳です。実家は「馬借」といって馬を使って荷物を運んだりすることを生業としていました。吉乃は最初に、土田弥平次に嫁いています。その後、夫が討死し実家に戻ってきました。その時に信長と出会い側室となります。
正室と同格?
吉乃は、1557年に信忠、1558年に次男信雄・1559年に徳姫を出産。3人とも生駒屋敷内で出産したとされています。正室に子供がなかったため、信忠は養子に入り織田家の嫡男になります。
3人の子供を産んだ後、産後の肥立ちが悪く体調を崩していまいます。そのさなか信長が清洲から小牧に移るのを機に、吉乃も小牧山城に移りました。信長は吉乃を頻繁に見舞うようになったといわれていますが、1566年に39歳で亡くなります。一説には29歳で亡くなったともいわれています。亡くなった時に信長から660石が贈られています。
吉乃にまつわる逸話
- 信長の母・土田御前と姻戚関係にあった
- 木下藤吉郎(秀吉)と信長が知り合うきっかけになった
- 亡くなった時に信長が涙を流して悲しんだ
- 名前は「吉乃」か本名ではなく、吉法師(信長の幼名)の女という意味で本名は「類」
色々な逸話が残っていますが、確実な裏づけはないようです。
たくさんの側室の中で吉乃は「信長に一番愛された女」と言われています。突飛な行動で人を驚かせ、恐がられていた信長を多方面から支えていたと言われています。側室でありながら、深く愛されるとは側室としては希なケースではないでしょうか。