織田信長の性格 短所はどこ?
どんな人にも性格の長所と短所があるものです。長所と短所は表裏一体ともいえます。
では、織田信長の短所とはなんだったのでしょう?それは短所と言えるのでしょうか?
本能寺の変
1582年6月21日、本能寺の変によって織田信長は自害します。
これは家臣である明智光秀によるクーデターでした。何故光秀が反旗を翻したかについては、現在も議論されています。
光秀からの怨恨説が多かったのですが、これは江戸時代以降の俗話による創作のです。
実際に分かっていることとしては、光秀は甲州征伐より帰ったところで、1582年5月15日より徳川家康の接待役を申しつけられますが、17日に途中解任されます。
それは高松城を包囲していた秀吉からの救援要請があったからでした。
途中で任を解かれたからなのか、それまでの不満が溜まり溜まっていたのか、はたまた出世したいとの野望があったからなのか。それは分かりません。
事実として、光秀は信長に与えられた兵団を率いている途中で、丹後の亀山より反旗を翻すのです。
ただ、出発した時から高松城とは逆の方向へ向かっていたので、兵を与えられた時点で光秀は謀反を考えていたのかも知れません。
自信家
信長は自信家だったようです。家臣をからかう、馬鹿にする、意見を聞かないなどはしょっちゅうだったようですし、自分に批判的な意見をする人物には徹底的に攻撃しました。
このような性格を知っての上で信長に仕えていたのでしょうから、不満が溜まって謀反を起こすなどとは考えにくいですね。
信長は自信家というより、行きすぎた発想をすることがあったようです。
自分の誕生日を生誕日として「自分こそが神体である」と言いだしたこともありました。
これには宣教師も驚き、「自らが神であるとは」と恐れおののいきました。同時に信長は危険だとも考えたでしょうね。
裏切りは許さない
信長は自分から盟約や和睦をやぶったことはありません。和睦した勢力と不仲になり、先方から和睦を反故にして争うことはありましたが、信長から仕掛けたことはありません。
また、裏切られたと感じたことには、徹底的に潰したようです。
高野山包囲は、高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きがあったがためのことです。
高野山包囲は1581年に開始されましたが、1582年に信長が死去したため最終的な決着などはついていません。
高野聖に変装して情報収集をする忍者が多いため、包囲したという説もありますが、前者の方が説得力がありますね。
信長なら、忍者活動に困ったら忍者を雇って見方につけるなど、何かしらの方法を取りそうです。
他にも信長に追われて寺に逃げ込みそれを受け入れたがため、寺が処刑されたこともあります。
そうなると、裏切りというより「自分に都合の悪いものは許さない」と言った方が良いでしょうか?そこまで我がままだと、天下統一など無理だと思いますが。
ひとことに短所とは言えない
信長は「暴君」のイメージがありますが、調べてみるとそれらの所業は戦国時代においては他の大名も普通に行っていたことなのですね。
ですから、信長だけが暴君で残虐だったのではないでしょう。ですが書状に「第六魔王」などと記していることもありますので、信長は「自分は怖いんだ、逆らうとどうなるかわからないぞ」と言うイメージを付けたかったのかもしれません。
そういう意味では、純粋に信長の短所を上げることは出来ないのではないでしょうか。
暴君が短所であるとするなら、戦国武将は全て短所だらけだと言っても過言ではないかもしれませんし。
短所を自覚していて、それを策略に活かした。そうでも考えなければ、これほど有名な人物にはならなかったでしょう。